温泉街のにぎわいは「湯治湯」の発展とともに生まれた

日本の温泉は文献が残されている奈良時代から、最初の東京オリンピックが開催された1960年代頃まで、わが国の治療学史において重要な役割を果たしてきました。とくに街道や宿場が整備され、庶民の旅が容易になった江戸時代以降、温泉場は効能を競っていたので、現在とは異なり“効かない”温泉は温泉と称することは憚られていたほどです。

ですから温泉街も、湯治場の発展とともに始まったといってもいいでしょう。湯治場のなかには、薩摩街道の日奈久(熊本県)や長崎街道の嬉野(佐賀県)のように宿場としてにぎわった湯治場もあるので、温泉街は「宿場系」と「湯治場系」に分類しておくことにします

宿場系は東京オリンピック開催の昭和中期以降は「行楽・歓楽型」となり、湯治場系は「行楽・歓楽型」と「療養型」に二分されます。

また酸ヶ湯温泉(青森県)や「鶴の湯温泉」に代表される乳頭温泉郷(秋田県)、阿蘇の地獄温泉(熊本県)などは、現在は「療養型」、あるいは後にふれる「秘湯系」としても、熱心な温泉ファンの間で人気のところが多いようです。

アクセスもしやすい「宿場系」の温泉

行楽・歓楽型の温泉地はもともと宿場が原型であったため、交通の便に恵まれた土地に発展しています。主な立地としては山間と海辺ですが、山間の場合はほとんどが河畔に開けています。

かみのやま温泉(山形県上山市)

羽州街道の宿場町として発展したかみのやま(上山)温泉(山形県)は、米沢街道の分岐点でもあり、松平氏三万石の城下町としても知られていました。

歴代藩主は共同浴場「下大湯」を設置したり、旅籠に内湯を引くことを認めたりしたため、早くから温泉場としても栄え現代に至ります。そのため湯治客はもちろん、参勤交代の大名や蔵王山や出羽三山詣での旅人でにぎわいを見せました。現在も“羽州の名城”と呼ばれていた往時を再現した上山(月岡)城を中心に、武家屋敷通りが残されるなど、個性的な湯町を形成しています。

下諏訪温泉(長野県下諏訪町)

中山道と交わる甲州街道随一の宿場、下諏訪(長野県)は「温泉のある門前町」として広く知られていました。諏訪湖の北岸に鎮座する諏訪大社下社秋宮の門前町として大変なにぎわいを見せた下諏訪温泉は、名湯「綿の湯」が有名で、当時としては最大級の「旅籠四〇軒」といわれ隆盛を誇ったものです。貝原益軒、十辺舎一九、葛飾北斎等も宿泊した湯町には、現在も江戸期創業の温泉旅館が複数健在です。

出所:PIXTA
【写真】下諏訪温泉の街並み 出所:PIXTA

嬉野温泉(佐賀県嬉野市)・武雄温泉(佐賀県武雄市)

九州は温泉が多い土地柄なだけに、温泉場の宿場がかなりありました。たとえば長崎街道には嬉野宿と塚崎宿(現在の武雄)。前者は嬉野温泉(佐賀県)、後者は武雄温泉(同)。数ある街道沿いの宿場町で、温泉のある宿場が続くところは長崎街道だけです。

730年頃に編まれた『肥前国風土記』にも登場する嬉野と武雄は、佐賀県というよりも九州を代表する行楽・歓楽型の大温泉地です。武雄はもともと墓崎(つかざき)と呼ばれ、時代が下って塚崎、柄崎などと表されるようになったのが、明治28(1895)年に九州鉄道が開業した際に、駅名を柄崎とせずに武雄としたことから、武雄の名が一般的になります。

嬉野湯宿、湯町、嬉野駅などとも呼ばれていた嬉野宿は、現在の「和多屋別荘」付近から「大正屋」の前までの約500メートルで、この間に30軒ほどの旅籠、木賃宿があり、商家、農家などをあわせると100軒余りの宿場だったといわれています。

佐賀藩の三支藩のひとつ蓮池藩の藩営の浴場があり、オランダ商館医でドイツ人医師ケンペルの『江戸参府紀行』にも登場したり、シーボルトによって温泉の調査が行われるなど、早くから外国人にも知られていました。それも長崎街道の宿場であった賜物でしょう。

安永9(1780)年の『湯方定書』によると、上湯、並湯等の別に入浴できる浴槽の規定や入浴料が定められており、「足軽以下町民は並湯に入ること」とあります。

一方、塚崎宿は現在の武雄温泉のシンボル、竜宮城を思わせる華やかな天平式の桜門の場所に本陣の正門があり、その奥に本陣と温泉場があったようです。脇本陣は現在の「湯元荘東洋館」の位置でした。温泉場には御前湯があり、佐賀藩主鍋島家や領主等が使用していました。

享和2(1802)年、尾張の商人、菱屋平七の長崎までの旅の記録『筑紫紀行』に柄崎宿のにぎわいが記されています。「……柄崎の宿。人家四百軒計り。佐賀の家臣衆の領地なり。此所に湿瘡疥瘡などによしといふ温泉あり。遠近の人湯治に来り集る。さるによりて宿屋茶屋も多し」