物価が安く、気候が温暖なフィリピンでセカンドライフを送る日本人高齢者は多い。日本で老後を送るよりは…と移住を決意した人々には、それぞれ語られるべきドラマがあった。そのきっかけが東日本大震災であった人も少なくないようだ。ここでは、ノンフィクションライターの水谷竹秀氏が取材した、鏡さんの「フィリピン移住の経緯」について紹介していく。 ※本連載は、書籍『脱出老人 フィリピン移住に最後の人生を賭ける日本人たち』(小学館)より一部を抜粋・再編集したものです。
56歳・日本人男性が「13歳下の妻」「100歳近い父母」とともにフィリピン移住を決めたワケ カメラのレンズを向けると大笑いした鏡賢一さんと妻のドミニカさん(撮影:水谷竹秀)

原発のない国へ…震災を機にフィリピン移住者は増加

東日本大震災以降、フィリピンへ移住する日本人が増加したという話を、ビザ手続き代行業者たちから聞いていた。特に、東京電力福島第一原発事故による放射能汚染の影響を心配した母親たちが、子供を伴ってフィリピンまで避難するのだ。

 

私の知る母子たちの多くは語学学校に通い、夫からの送金を頼りに異国での生活を続けていた。震災は国内だけの避難、移住にとどまらず、いつの間にか海外へも波及していたのだ。

 

ちなみにフィリピンには原発がない。首都圏から直線距離で約80キロのバタアン半島西岸には、1980年代半ばにほぼ完成したバタアン原発が建っているが、チェルノブイリ原発事故などの影響で当時の政府が運転凍結を決めた。

 

2001年に発足したアロヨ政権末期には、将来の電力不足を懸念して運転再開の議論が高まったが、福島原発事故を受けて実現には至らなかった。

 

私が鏡さんと会ったのは、彼が移住してから1年以上が経過した、2013年の年明け早々だった。

 

マニラから北上し、長距離バスに揺られること約4時間。私はバスに乗ってすぐに爆睡してしまい、目覚めると新緑の田んぼが両側に広がる田舎道を走っていた。腰をかがめて田植えをしている農家の女性の姿が遠くに見える。間もなくするとバスは街の中心部に到着した。

 

鏡さん一家が住む家は、ルソン島ヌエバエシハ州中部のとある田舎町にあった。町の中心部からさらに車で離れた、携帯電話の電波も届かないようなところだ。妻の実家が近くにあるためで、未舗装の砂利道を車で進んでいくと、巨大なマンゴー農園が現れる。鏡さんが運転する車がこの農園のゲートを入ると、白い新築の大きな家が見えた。

 

広大なマンゴー農園に建つ鏡さんの家
広大なマンゴー農園に建つ鏡さんの家

 

中へ案内されると、奧の部屋に父親と思(おぼ)しき男性が、竹でできたベッドの上で体育座りをしていた。

 

「今度の誕生日で100歳になります。うちの父があったかいところで暮らしたいなあって言ったのが、ここへ移住したきっかけです」

 

Tシャツに短パンというラフな格好で、鏡さんはそう説明した。