身近にあるものの、なかなか気に留めることが少ない「雑草」。実は、薬になったり、食べたりすることができるものが数多く存在するのです。本記事では、雑草学博士の小笠原勝将氏が、「役立つ雑草」について紹介していきます。
食べられる、薬になる…雑草学博士が紹介する「身近な雑草」の豆知識 (※写真はイメージです/PIXTA)

サクサクの天ぷらに…食用になる雑草たち

次に食用になる雑草です。セイヨウタンポポはサラダに、イタドリはお浸しに、オオバコやドクダミは天ぷらで美味しく頂くことができます。葉がしっかりしていて、サクサク感は最高です。

 

スベリヒユは畑の代表的な雑草で、山形県では「ひょう」と呼ばれており、郷土料理の材料になっています。トルコでもセミズオトゥ(semizotu)と呼ばれ、ヨーグルト和えなどで食べられています。

 

多くの雑草はワラビやゼンマイなどの山菜ほど食用として市民権を得ているわけではありませんが、中には意図的に栽培されていた(現在も栽培されている)雑草があります。それがイネの強害草のヒエです。

 

日本では、昔からコメの冷害が頻発し、567年から1945年の約1400年間において歴史に残っているものだけでも506回もの飢饉がありました。平均すると1回/2.7年の割合で、日本のどこかで人々は食うや食わずの大変な目にあっていたことになります。

 

「人間50年、下天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」なんて悠長なことを言っている場合ではなかったと思います。代表的な飢饉として、265万人が飢民になり100万人が餓死したと伝えられている1732年に起きた享保の飢饉と、東北地方を中心に30万人以上が餓死したと伝えられている1783年から1788年にかけて起きた天明の飢饉があります。

 

飢饉は昔のことのように思われますが、1934年に東北地方で大凶作が起こり、秋田県だけでも1万人以上もの女性が身売りや出稼ぎに出されたといわれています。

 

また、東北地方のコメの作況指数が56で、急遽、タイからコメを輸入した1993年の米騒動も記憶に新しいところです。

 

凶作は病害虫と冷害によるもので、現在のような農薬や耐冷性品種がなかった大正時代のはじめ頃までは、普段から飢饉に対する備えとして救荒作物が栽培されていました。

 

その代表的な植物がヒエです。水田に生えているタイヌビという雑草なのか、あるいは作物として品種改良された栽培ヒエなのかは不明ですが、[図表]に示したように、ヒエはイネよりも低温に強く、明治35年にはコメがわずか18キログラム/10アールしか取れなかったの対してヒエは51キログラム/10アールも取れたという記録が残っています。

 

[図表]異なる地温条件下で育成した場合のイヌビエと直播イネの根系と総根長(小笠原)

 

 

ヒエは今でも岩手県を中心に100ヘクタールほど栽培されており、10アール当たりの収量はコメの1/3ほどですが、価格がコメの2~3倍になることから、粗放管理の割には収益性の高い作物として注目されています。

 

 

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小笠原 勝


1956年、秋田県生まれ。1978年、宇都宮大学農学部農学科卒業。1987年、民間会社を経て宇都宮大学に奉職。日本芝草学会長、日本雑草学会評議委員等を歴任。現在、宇都宮大学雑草管理教育研究センター教授、博士(農学)。専攻は雑草学。 主な著書「在来野草による緑化ハンドブック」(朝倉書店、共著)「Soil Health and Land Use Management」(Intech、共著)「東日本大震災からの農林水産業と地域社会の復興」(養賢堂、共著)研究論文多数。