日本人という民族は、本来「成果主義とはなじまない」
ところで、成果主義や生産性至上主義は、日本人の民族性を考えたとき、そもそもあまりなじまないのかもしれないと、私は考えています。
そう考える契機ともなった本が、河合隼雄先生の『中空構造日本の深層』(中公叢書)でした。河合隼雄先生は、日本を代表する臨床心理学者であり、生涯を通じて「心の問題」や「人間の本質」について取り組み、研究されてきた方です。
先に紹介した著書のなかで、河合先生は日本人の民族性を『古事記』などの神話に求めようとしています。
『古事記』の冒頭に登場する造化三神が、タカミムスミ、アメノミナカヌシ、カミムスビです。そのなかのアメノミナカヌシは最高神にもかかわらず、最初に名前が出てくるだけで、ほかには何の記述もありません。
イザナギとイザナミのあいだにできたツクヨミノミコトも、三貴神のうちの一柱なのにほとんどふれられないままなのです。
河合先生はそれぞれ三神の中心的な存在であるアメノミナカヌシもツクヨミノミコトもほとんど古事記のなかに登場しないことに着目して、中心となる神が何もしないこの構造を「中空構造」と名づけました。
そして、日本人の深層にはこの中空構造があると論じたのです。
河合先生は、日本人の深層に根づく中空構造の長所を次のように説明しています。
「日本の中空均衡型モデルでは、相対立するものや矛盾するものを敢えて排除せず、共存しうる可能性をもつものである。」
この言葉を成果主義や生産性至上義との関係で見ると、次のように考えられないでしょうか。
「中心となるべきものが空である中空構造を持つ日本人は、物事を善と悪の2つに分けて評価し、判断するようなことはしない。成果を上げている人間がそうでない人間をあえて排除しないで共存していくことが可能な民族でもあるのだ」と。
とは言え、河合先生は中空構造の欠点も指摘しています。大きな事故や事件、不祥事が起きたときに、中心となるものが存在しないために、誰も責任をとらない無責任体制を生むというのです。