「孤独死」という社会問題。勤めながら結婚をし、子供を育てた「普通の人」たちの身にも起こっている実態があります。高齢化が進む都営・桐ヶ丘団地でも、例にもれず複数件の孤独死が発生しました。同団地住民を長く取材してきた、文化人類学博士の朴承賢氏が、孤独死と団地住人について解説します。※本連載は、書籍『老いゆく団地』(森話社)より一部を抜粋・再編集したものです。
60代男性が圧倒的に多い…“普通の人”でも「孤独死」に至る日本の悲惨 (※写真はイメージです/PIXTA)

30代でも…「平凡な人」が孤独死に至る現実

団地の孤独死の問題は、『団地と孤独死』[中沢・淑徳大学孤独死研究会 2008]や『団地が死んでいく』[大山 2008]でもとりあげられた。

 

阪神・淡路大震災以降の「仮設住宅」の孤独死、2000年代以降の「団地」の孤独死の問題が、個人の孤立を深める空間配置の中で浮上したことは偶然ではないだろう。

 

そこでとりあげられたのは、高齢化した団地と孤独死の関連に限定されたものであったが、2010年のNHKスペシャル『無縁社会 “無縁死”3万2千人の衝撃』は、30代にも起こりうる孤独死や若年層の社会的孤立の問題、さらには未婚率の急上昇を含めた人間関係「縁」の全般的崩壊を表すものであった。

 

視聴者の多くに恐怖を植えつけるような演出過剰に対する批判もあったが、この番組は、「無縁社会」という流行語・新造語まで作り出すほど社会的に大きな反響を呼んだ。

 

そこでは、平凡な家庭で育ち、勤めながら結婚をして子供を育てた普通の人たちが、失業や離婚によって一人暮らしの末に孤独な死に至る過程が追跡され、視聴者は孤独死に至った人びとの「平凡さ」に衝撃を受けた。

 

NHKの『無縁社会』ではその「平凡さ」が強調されたが、桐ヶ丘団地の住民たちは、孤独死に対する偏見を隠さなかった。

 

住民たちは、孤独死した人は「やはり生活保護とか施設から来た人」や「若い時からブラブラしていた人」と見なしていたのだ。

 

死ぬ瞬間は一人であったとしても、その死がすぐに家族や友人に発見され、葬儀が行われて追悼された場合は孤独死とはいわない。孤独死は、死ぬ瞬間一人である死、さらにその後、誰もが彼の不在に気づかなかった死を意味する。孤独死は、孤独な死だけでなく、死の以前からの孤独な生、そして死の後の孤独な状態までも含んでいる。

 

住民たちは、「孤独死が最も怖い」と、自らの孤独な死を恐れながらも、一方では、孤独死をした人の死を「平凡な人」の死とは思わないのだ。むしろ、それほどの孤独な生と死は、自らの責任だと見なしていた。

 

しかし同時に、「孤独死が最も怖い」という発言は、自分に死が急迫した時に誰にも看取られずに、一人で死の瞬間を迎えることに対する不安を含んでいる。そこには、孤独死が誰にでも発生しうる身近な問題という認識が込められていた。