日本と豪州で異なる「学級」の概念
日本の子どもたちは、新年度のクラスの発表に一喜一憂する。自分がどのクラスになるか、親友と一緒になれるか、誰が担任になるのか、ドキドキしながら発表を待つ。
子どもたちにとっては1年間の学校生活を左右する大きなことで、クラスの名簿が掲示される場はさながら入試の合格発表のようだ。同じクラスになり抱き合って喜ぶ子もいれば、不本意な結果に涙する子もいる。
担任は始業式の場で発表されることもある。その際は、担任の名前を聞いた生徒が凍り付いたようになることもあれば、「やったー」と歓声が上がることもある。思わず正直な反応が出てしまうのだろう。
オーストラリアでは、こうした風景はほとんど見られない。クラス替えはあるが、メールで通知されたり、前年度末(夏休み前)に旧クラスで知らされたりする。
年度初めは前年度のクラスのままだったりすることもあるし、本人や保護者の希望を取る学校もある。ホームルームで過ごすことが少ないハイスクールでは、クラスに対する生徒の反応は淡々としており、それほど大きな問題とは考えていないように見える。
日豪ともにホームルームがあり担任も配置されているが
日本の学級は、学校教育の目標を達成するために編成された制度としての組織であり、学習指導と生徒指導の基本単位とされている。一人の担任と複数の生徒によって構成され、生徒は決まった教室で家族のように生活する。学級への帰属意識も強く、まさに「ホームルーム」だ。
その中で、学級会や係活動など様々な活動を通して、生徒は人間的に成長していく。学級は学校教育の重要な要素だ。
オーストラリアの学校にもホームルームはあり、担任も配置されている。でも、「ホーム」の概念は日本ほど強くない。出席確認や連絡事項を伝えるくらいで、クラスを単位として行う活動はほとんどない。クラスメートとして一緒に過ごす時間も少ない。学級活動を通して教育目標を達成するという認識はないように感じる。
クラスの「団結」「協力」「まとまり」といった言葉を耳にすることも、オーストラリアではほとんどない。日本では運動会などで「みんなが一致団結して」とか「クラス一丸となって」などというスローガンが掲げられる。
最近は「絆」がそれに加わっている。学級への帰属意識が求められ、自己犠牲が強いられることも少なくない。集団を重んじる文化の表れかもしれない。
「協力」や「団結」を否定するわけではないが、それらを求め過ぎるのはいかがなものかと思う。
同調圧力が強まり、集団のためなら個人を犠牲にすることが当然のように語られたりすると息苦しさを感じる生徒もいるのではないだろうか。