千葉県で農家を営むJさんは、先祖代々受け継いできた農地を守りながらも、一生懸命に働き、収益を生み出して土地を買い増し、700坪あまりの農地を所有していました。年齢が70歳を超えたある日、Jさんは家の中で転倒し、足を悪くしてしまいます。農業も思うようにできなくなってきたその頃、筆者は土地の売買のときにお付き合いしたことがあったご縁で、Jさんから今後の土地のことや手続きについて相談を受けることになりました。
話をうかがってみると、Jさんには3人の娘がいますが、実家の隣に家を建てて住んでいる次女が、夫とともに農業を継ぐ意志があるということを聞いて、農地はすべて次女に相続させるように考えているとのことでした。Jさんの農地は生産緑地として指定されているため、農業を継続することを前提としての相続であれば、相続税の納税猶予が適用できることもそのように考えた一因です。
また、Jさんは農地以外の財産として実家と駐車場を持ってはいたのですが、現預金となるとそれほど十分に蓄えていたわけではなかったため、納税資金を心配していたこともあったようでした。生産緑地は一度解除してしまうと、通常通りの土地の路線価で評価をつけられ、高額な相続税が課せられる心配があります。
ところが、その後さらに話を聞いていると、農地の相続についてはまだ次女にしか話をしていないことがわかりました。長女は神奈川へ、三女は青森へと嫁いでいることもあって、その2人に対しての遺産分割については考えられておらず、残りの財産で分配すれば何とかなるだろうと思っていたようです。
相続全体についての心配が膨らんできたので、家族事情について詳しく話を聞いてみると、Jさんには先妻がいたことがわかります。長女はその先妻との間の子で、次女と三女は後妻の子でした。
さらに長女については、昔ひと悶着あったといいます。実はもともと先妻の子であることを長女本人は知らず、Jさんはいつか言おうと思っていながらも告げる機会を逃し続けていました。そのような中、長女が高校生になった頃、家にある戸籍謄本を目にする機会があり、そこで生みの親と育ての親が違うことに自ら気づいてしまいます。相当のショックを受け、それ以来、長女と両親の関係はギクシャクし、高校を卒業すると家から出ていってしまうことになりました。
これらの事情を聞いて、ますます長女との間に相続トラブルが起こりそうだと不安が募りましたが、その時のJさんは遺言書を作るほどのことではないし、作る必要もないだろうという認識でした。
次女に「財産のほとんど」を相続。父親の真意は…
●問題点1 農地の相続先しか考えていない
まず問題として感じたのは、Jさんが農地を次女に相続させることしか考えていなかったことです。Jさん自身も、長男として家業である農業を引き継いでから、艱難辛苦を経験しながらも、心血を注いで農地を守ることに尽力してきた経緯があります。それゆえ、今後も農業をうまく継続してもらえることを何よりも重視しており、家業を継ぐと言ってくれた次女とその夫に感謝と激励の気持ちを込めて、財産のほとんどを占める農地を相続させることに抵抗がなかったのです。
しかし、現在の遺産分割というのは平等性が求められることは言うまでもありません。次女にご自分の集大成とでも呼ぶべき財産を相続させることになれば、長女や三女に対しての財産が自然と見劣りすることになります。
農地以外の財産が潤沢であれば、分割方法を考えればどうにか平等なバランスを保つところまでもっていけるかもしれませんが、そのような財産は持っていませんでしたし、現金も財産に対して多いとは言い難いものでした。現金は誰に対しても明白に平等ですから、現金があれば遺産分割のバランサーとして役立ったはずです。
Jさんの財産は、現預金2000万円と実家と駐車場だけです。実家と今後の生活費としての現預金は今の妻が相続することになるので、残りは余った現預金と駐車場だけです。駐車場は嫁いでいった娘2人にとっては使いづらい資産なので欲しがるとは思えません。駐車場がある程度の金額で売れて、現金で分割することができれば理想的でしたが、あまり利用者もいないような駐車場で、高く売れることは考えづらい状態でした。
実は「長女だけ」、母の相続ができない…そのワケ
●問題点2 母違いの長女へのフォローを考えていなかった
2つ目の問題点は、長女に対してのフォローを何も考えていなかったことです。実はこの長女に関しては、相続でトラブルを引き起こす要因をたくさん抱えています。
まず長女は高校生の頃にギクシャクして家を出ていっているわけですから、Jさんや後妻に対する不信感や、わだかまりみたいなものを溜め込んでいてもおかしくありません。もし、その状況で長女を差し置いて財産のほとんどを次女に相続するということがわかったら、何らかの行動を起こしてきてもおかしくないと感じていました。
平等でないだけでも不平不満が出てくるのに、そこに過去の負の出来事が影を落としているわけですから、場合によっては豹変して財産を要求してくることもあり得ます。相続では、今まで誰にも見せたことのないような性格を見せる人は少なくないのです。
また、実は母が違うということは、父が亡くなった後の二次相続、つまり後妻の相続の時に長女には相続権がなくなります。今のままでは、長女が何も言わないとほとんど財産を引き継げないことになってしまうのです。それに加えて、長女の夫は司法試験を受験した経歴を持っており、法律について詳しいため、無用な入れ知恵をされる可能性もあります。
異母きょうだいがいる場合などに相続でトラブルが起こりやすいことはよく知られていますが、ここまでトラブルのお膳立てをされているような状況は少ないのではないか、と思ったほど危機感を覚えました。
次女が相続しなかったときの納税額が「エグい」
●解決策1 相続税額を考えて農地の相続先を決める
最初に考えておくべきは、農地をどうすべきかを決めるということでした。農業を継がせたい人がいて継ぎたい人がいるわけですから、納税猶予のことを考えても、それはそのまま相続させた方がいいのは間違いありません。
農地の納税猶予とは何かというと、相続では農地にかかる相続税によって農家が継続できないといった不都合な事態を避けるために、一定の条件のもとで相続税の納税を猶予する特例のことです。一定の条件とは、被相続人が所有して農業を営んでいた農地であること、また、相続人が相続してから相続税の申告期限までに農業経営を開始、その後も引き続き継続すると認められることです。
納税「猶予」とはありますが、農地を譲渡したり農業経営を廃止したりしない限り、猶予は打ち切られることなく、最終的に免税となります。Jさんの場合には、この条件はまず問題なさそうでした。
また、納税猶予を利用することでどのくらい変わってくるかというと、Jさんの700坪の農地の場合、通常の路線価で計算すると2億3000万円もの相続税評価額です。一方で農地を農業のみで利用する場合に認められる農業投資価格で評価すると約180万円になります。評価額にこれだけ大きな違いが出ることがわかっており、納税額にも影響を与えることは明らかでした。営農と納税資金を考えれば、次女への農地の相続を長女と三女に納得してもらうのが最も良い形だったのです。
快諾の三女、ごねる長女…。和解できないまま父は
●解決策2 長女と三女の遺留分について相談する
しかし、何もなくただ納得してもらうというのは虫が良すぎる話です。私は、最低でも長女と三女の遺留分だけは確保しないと話はうまく進まないのではないかと考えました。相続の話をしていくうちに、Jさんも「確かに言われてみればそうした方がいいだろう」と考えるようになり、遺留分の現金をどうにか用意する方向で動きたいと言ってくれました。
遺産分割では遺留分というものを考えないといけません。遺留分とは、相続人が財産を全くもらえずにその後の生活に支障をきたすようなことを防ぐために設けられている権利です。基本的には法定相続割合の半分が遺留分として認められています。
Jさんの場合には、奥さんと3人の娘がいますから、法定相続割合は奥さんが2分の1、娘がそれぞれ6分の1ずつです。遺留分はその半分ですから、奥さんが4分の1、娘は12分の1です。
Jさんの相続財産は、通常の評価額では農地も含め2億7000万円ほどあると考えられましたから、長女にも三女にも2250万円ずつの遺留分があります。合わせて4500万円をどうにか用意すればいいことが分かります。但し、農地以外の財産はすべて売却しても4000万円程度しか見込めません。しかもJさんの奥さんが実家や生活費を相続することを考えると、実質的には2000万円も用意できないのです。
そこで、私の方で長女と三女に事情をすべて説明することにしました。彼女たちには遺留分としてどれだけの金額が保証されているか、また遺留分をJさんはすべて用意するつもりでいるが、現時点では難しいかもしれないと伝えます。三女は、農業を継ぐことができないという申し訳なさもあったことから、遺留分すべてを用意しなくても問題ないし、気持ちだけでとにかくうれしいと言ってくれました。
しかし、やはり長女は簡単に納得してくれそうにはありませんでした。長女の場合、血がつながっていないため、Jさんの奥さんが亡くなった時、いわゆる二次相続の時の相続権もないのに、Jさんが亡くなった時の遺留分すら確保できないのでは話にならないと訴えてきたのです。何度も場を設けて時間をかけて話をしてもどうしても納得してもらえず、最終的に長女とは和解することはできませんでした。
「私が亡くなったあとも…」家族を救う父、感動の遺言
●解決策3 最終手段にして効果的な付言事項の利用
長女との話し合いは、平行線のまま1年が過ぎてしまいました。その間、長女は耳を傾けるどころか、段々と姿勢は頑なになり、話し合いにすら応じなくなりました。なす術もない状態になってしまうと、Jさんと奥さんは「時が経てばきっと納得してくれると信じよう」と時間が解決することに淡い期待を抱き、気長に待つことにしました。
いつ相続が発生するかわからないのに、このまま時間が経つことはリスクがありましたが、事前に説得のためにできることはなくなってしまったので、動きようがなかったのも事実です。そこで筆者は最後の手段をお勧めすることにしました。それは、「公正証書遺言」です。
この「公正証書遺言」とは、公証人の面前で遺言内容を口授し、公証人によって作成されます。公証人は法務のスペシャリストですから、法的にも落ち度がなく、完成度の高い遺言書を作成することが可能です。しかも、原本は公証役場で厳重に保管されるため、大切な遺言書が紛失、破棄、改ざんされたりする恐れはありません。相続が発生する前から既に「争族」に発展してしまいそうな気配のあるJさん一家の場合は、なんとしても確実性のある公正証書遺言を作成する必要がありました。
公正証書遺言の必要性をJさんに説明し、再三にわたって説得を試みましたが、当初Jさんは公正証書遺言を書くことに乗り気ではありませんでした。人間誰しも、自分の死を想定して段取りするのは気が引けるものです。これは、Jさんに限らず、遺言書を書くことを勧められた人の大多数がこうした反応を見せると言ってもいいでしょう。
公正証書遺言を書くことを勧めてから6カ月間、Jさんはなかなか行動を起こそうとしませんでした。そこで私は弁護士を紹介することにしました。弁護士から公正証書遺言を残すことのメリットや、公正証書遺言を書かないことで、現在起き始めているトラブルが悪化することが目に見えているという説明を受けると、Jさんもついに決心するに至り、ようやく重い腰を上げて公正証書遺言を書くことになったのです。
公正証書遺言の内容は、誰に対してどの財産を残す、遺言執行人を誰にする、といった事務的で簡素なものです。いくらJさんの希望を法務のスペシャリストがぬかりなく文章に起こした文書といえども、相続発生後に開示された遺言書の内容に、長女が納得してくれる確率は限りなく低いでしょう。
そこで筆者がJさんに強くお勧めしたのが、付言事項の記入です。付言事項とは、名称が示す通り、本文の補足として付け足す言葉です。付言事項には特段の縛りはありません。感謝の言葉や遺産分割の理由、自分がいなくなってからの遺族の生活についてなど、被相続人の率直な想いを最後のメッセージとして遺族に伝えることができるのです。
人間誰しも面と向かうと言いにくいこともあるでしょうし、最後の言葉だからこそ伝わる想いもあります。付言事項によって、遺族間でくすぶる火種が吹き飛ぶという場面を何度も見てきました。遺族の心に与える影響は、思った以上に大きいものです。もし時間が経っても長女の態度が軟化しないならば、この付言事項によって考えを改めてもらおうと、一縷の望みを託すことにしたのです。
結局、4年後にJさんは亡くなってしまいました。駐車場を売却して現預金の蓄えは増えていたものの遺留分には足りず、長女と折り合うこともないまま相続が発生したのです。四十九日法要の翌日、弊社の会議室で奥さんと長女、次女、三女の4人に集まってもらい、公正証書遺言の開封です。遺言書の内容は、もともとJさんが主張していたものです。
奥さんに実家と今後の生活費として500万円を、次女に700坪の農地を、長女と三女には1000万円ずつを遺すという内容です。配分の内容を読み上げていても、長女の目つきは厳しくなる一方でした。
そして最後に付言事項が読み上げられます。
三姉妹全員を平等に想っていましたよ。
私が亡くなったあとも仲良くしてください。
最後まで読み上げると、長女の険しい表情はいつの間にか緩み、目には涙が滲んでいました。この涙が、相続の問題はすべて解決されたことを物語っていました。付言事項に心動かされた長女は、遺留分について何の主張をすることもなく、Jさんの遺志通りに財産を受け取ったのでした。
株式会社財産ドック