なぜ家に帰ることができないのか…理解できない母
ところが、本当につらかったのは入居後でした。最初の電話は、その日の夜にかかってきました。
「由紀子、迎えに来て」
母は不安そうな声でした。翌日も電話がありました。その翌日もありました。やがて電話は毎晩のようになります。仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませた頃に着信が入ります。
「私、何か悪いことした?」
「みんな帰るのに、私は帰れないの?」
「私を見捨てるの?」
由紀子さんは何度も説明しました。
「お母さんを守るためなんだよ」
「みんなが見守ってくれるから大丈夫だよ」
しかし母は納得しません。翌日には同じ内容の電話がかかってきます。認知症の進行によって記憶が定着しづらくなっていたのです。由紀子さんは次第に追い詰められていきました。電話が鳴るたびに胸が重くなります。休日に面会へ行っても状況は変わりません。
「今日こそ家に連れて帰って」
母はそう繰り返しました。一方で施設職員からは、「夜は落ち着いて過ごされていますよ」と報告を受けます。面会中だけ帰宅願望が強く出ている可能性もありました。それでも娘としては割り切れません。
「施設に預けたから終わりではなかったんです」
由紀子さんはそう振り返ります。ある夜、母から10回以上の着信が入りました。会議中で電話に出られず、帰宅後に折り返すと母は泣いていました。
「どうして出てくれないの」
その言葉に由紀子さんは思わず声を荒らげました。
「私だって仕事してるの!」
電話の向こうで母は黙り込みました。その瞬間、由紀子さんは強い後悔を覚えたといいます。
「母は不安だっただけなのに、私は余裕を失っていました」
その後、施設職員やケアマネジャーに相談しました。すると、電話の回数を一定程度コントロールしながら、面会の頻度や時間帯を調整する方法を提案されました。また、母が施設内で参加できるレクリエーションや交流の機会を増やしたところ、少しずつ生活リズムが整い始めます。
電話は毎日から週に数回へ減りました。「帰りたい」と言われることもあります。ただ、以前とは違うことがあります。由紀子さん自身が、母の言葉をそのまま受け止めすぎないようになったのです。
「母は本当に私を責めていたわけではなかったと思います。不安や寂しさを伝える言葉だったのでしょう」
母を施設へ入居させた判断が正しかったのか、今でも断言はできないといいます。それでも一つだけ確かなことがあります。
「施設に入ればゴールだと思っていた。実際は新しく親との関係が始まるのだなと気づきました」
深夜の電話に悩み続けた日々を経て、由紀子さんは今、そう受け止めています。