認知症の兆候が見え始めた親を施設へ入居させる決断は、多くの家族が直面する課題です。安全な生活環境を整えられる一方で、親の孤独感や家族の罪悪感に悩むケースも少なくありません。本記事では、80歳の母を施設へ入居させた54歳の娘の事例を通して、施設入居後に親子関係が揺らいでいく現実をみていきます。
「私を見捨てるの?」深夜0時の着信に凍りつく…年金15万円・80歳母を「老人ホーム」に入れた54歳娘、想定以上の後悔

なぜ家に帰ることができないのか…理解できない母

ところが、本当につらかったのは入居後でした。最初の電話は、その日の夜にかかってきました。

 

「由紀子、迎えに来て」

 

母は不安そうな声でした。翌日も電話がありました。その翌日もありました。やがて電話は毎晩のようになります。仕事を終えて帰宅し、夕食を済ませた頃に着信が入ります。

 

「私、何か悪いことした?」

「みんな帰るのに、私は帰れないの?」

「私を見捨てるの?」

 

由紀子さんは何度も説明しました。

 

「お母さんを守るためなんだよ」

「みんなが見守ってくれるから大丈夫だよ」

 

しかし母は納得しません。翌日には同じ内容の電話がかかってきます。認知症の進行によって記憶が定着しづらくなっていたのです。由紀子さんは次第に追い詰められていきました。電話が鳴るたびに胸が重くなります。休日に面会へ行っても状況は変わりません。

 

「今日こそ家に連れて帰って」

 

母はそう繰り返しました。一方で施設職員からは、「夜は落ち着いて過ごされていますよ」と報告を受けます。面会中だけ帰宅願望が強く出ている可能性もありました。それでも娘としては割り切れません。

 

「施設に預けたから終わりではなかったんです」

 

由紀子さんはそう振り返ります。ある夜、母から10回以上の着信が入りました。会議中で電話に出られず、帰宅後に折り返すと母は泣いていました。

 

「どうして出てくれないの」

 

その言葉に由紀子さんは思わず声を荒らげました。

 

「私だって仕事してるの!」

 

電話の向こうで母は黙り込みました。その瞬間、由紀子さんは強い後悔を覚えたといいます。

 

「母は不安だっただけなのに、私は余裕を失っていました」

 

その後、施設職員やケアマネジャーに相談しました。すると、電話の回数を一定程度コントロールしながら、面会の頻度や時間帯を調整する方法を提案されました。また、母が施設内で参加できるレクリエーションや交流の機会を増やしたところ、少しずつ生活リズムが整い始めます。

 

電話は毎日から週に数回へ減りました。「帰りたい」と言われることもあります。ただ、以前とは違うことがあります。由紀子さん自身が、母の言葉をそのまま受け止めすぎないようになったのです。

 

「母は本当に私を責めていたわけではなかったと思います。不安や寂しさを伝える言葉だったのでしょう」

 

母を施設へ入居させた判断が正しかったのか、今でも断言はできないといいます。それでも一つだけ確かなことがあります。

 

「施設に入ればゴールだと思っていた。実際は新しく親との関係が始まるのだなと気づきました」

 

深夜の電話に悩み続けた日々を経て、由紀子さんは今、そう受け止めています。