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震える手で書いた「2,000万円」
東京都郊外、築40年の団地風マンション。そこに住む加藤誠一さん(仮名・74歳)の生活は、資産8,000万円を保有しているとは到底思えないほど質素でした。加藤さんは、地方の貧しい農家に生まれ、中学卒業後から丁稚奉公同然で働き、一代で小さな部品加工会社を支えてきた「叩き上げ」です。
「若い頃は本当に食えなくてね。あのひもじさが、ずっと体の中にこびりついているんです。だから、いくら稼いでも、いくら通帳の数字が増えても、『明日にはすべて失うかもしれない』という恐怖が消えなかった」
加藤さんは、かつての猛烈社員時代を回想します。バブル期も、周囲が浮かれるなかで徹底した節約を貫きました。
「妻がね、『一度でいいから、あの温泉宿に泊まりたい』と言ったことがあったんです。でも当時の私は、一泊数万円を払うのが怖かった。将来何かあったらどうするんだって、怒鳴るように断って。仕事が落ち着いたら、お金がもっと貯まったらって……そればかりでした」
しかし、その「いつか」は永遠に失われました。5年前、献身的に支えてくれた妻が病で急逝。さらに昨年、加藤さん自身も脳梗塞を患い、左半身に麻痺が残りました。一人暮らしは困難となり、彼はついに、民間の有料老人ホームへの入居を決めました。
入居一時金、2,000万円。ATMでは操作できない高額な振込みのため、加藤さんは数日前から銀行に予約を入れ、震える足で窓口へ向かいました。
「高額ですので、お使いみちを確認できる書類を……」
事務的な行員の言葉に、加藤さんはホームの契約書を差し出します。不自由な右手で、振込依頼書に「20,000,000」という数字を書き入れる。行員が「役席の検印を仰ぎますので、少々お待ちください」と奥へ消える間、加藤さんは窓口の椅子に深く腰掛け、ぼんやりと天井を見つめていました。
「……情けなくて、ね。銀行の人は、私が詐欺に遭ってないか心配してくれてるんでしょうけど、こっちはそれどころじゃない。ああ、俺はこのために、あんなに必死に働いてきたのかって。妻を泣かせてまで貯めた金が、これか、って。そう思ったら、もう、止まらなくて」
妻への謝罪と人生への絶望――加藤さんは顔を覆い、咽び泣いたといいます。
「2,000万円ですよ。あの時、妻と旅行に行っていれば、何度だって行けた。美味しいものだって、山ほど食べさせてやれた。なのに、いざこの年になって大金を使う先が、自分の『世話をしてもらうための場所代』だなんて。贅沢も何もない。ただ死ぬまでの維持費を払ってるようなもんですよ」
数十分後、手続きを終え、数千万単位で数字が減った通帳を返されたとき、加藤さんはかつてない虚脱感に襲われました。
「結局ね、俺はお金を持っていたんじゃなくて、お金に縛られていただけなんです。結局私は、介護してもらうために働いてきたようなもんですよ。本当、何のために生きてきたのか……」