(※写真はイメージです/PIXTA)
静かな宣言と、飲み込んだ言葉
都内の分譲マンションで、妻・美咲さん(43歳・仮名)と高校生、中学生の子どもの4人で暮らす田中健一さん(44歳・仮名)。月収は約47万円と、大卒サラリーマンの平均的な水準であり、美咲さんも共働きで家計を支えています。しかし住宅ローンに加え、最近では塾代や学費がかさみ、決して余裕があるとはいえません。
そんなある日、健一さんにとって衝撃的な出来事が起きます。それは、1人暮らしをしている実家の母・田中和子さん(70歳・仮名)を訪ねたときのことでした。
「その日は、私ひとりでした。下の子が小学生だったころまでは、学童の迎えや食事の用意など、よく面倒を見に私たちの家に来てくれていました。子どもに手がかからなくなってからは来る機会も減り、最近は私が様子を確認しに、実家へ行くようになっていたんです」
夕食後、おもむろに和子さんが切り出しました。
「3,000万円の貯金、全部使い切るつもり。いいよね?」
3,000万円の貯金というのは、10年前に亡くなった父(和子さんの夫)の遺産のことであり、和子さんの資産のすべてでした。遺族年金を含めて月15万円ほどの年金を受け取っている和子さん。家は持ち家であり、高齢の女性がひとり暮らすには十分な金額です。そのため、父の遺産は相続発生時のまま、1円も手を付けていない状態でした。
「なんで急にそんな話をするの?」と健一さんが戸惑いながら尋ねると、和子さんは少し笑いながら答えました。「OOちゃんも、XXちゃん(ともに健一さんの子ども=孫)も大きくなって、送り迎えも面倒を見る機会もないじゃない。私の役目は一段落かなと思って、これからの人生を考えたの」。孫育ても一段落し、これからは自分の人生を生きる。それが彼女の決意でした。いずれはこの家を売って施設に入るつもりだという和子さん。入居金を含めれば決して贅沢ができるわけではなく、堅実に暮らしていても、きっと使い切ってしまうだろうと言います。
「きっと1円も残らないわ。前もって言っておいたほうがいいかなと思って」
健一さんは動揺を隠せません。「全部使い切る必要なんてあるのか?」と、思わず語気が強くなってしまいました。しかし和子さんは、落ち着いた口調で返します。
「残す前提で生きるのはやめるわ。これから年を取っていけば、あなたたちに迷惑をかけてしまう。でもお互い大変じゃない。だからこそ、気を遣い合いたくないの」
健一さんはその言葉に、返す言葉を失いました。本音を言えば、どこかで「いざという時は母の資産がある」という気持ちが支えになっていたからです。長男に続き、次男の大学進学も控えています。住宅ローンの返済もまだまだ続きます。相続を前提にしていたわけではありませんが、母からの支援を全く期待していなかったとは言えない、と健一さんは振り返ります。
「自分の甘えを突かれた気がしました」