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2,200万円の退職金と、埋まらない夫婦の沈黙
東京都郊外の住宅街に住む佐藤健一さん(67歳・仮名)は、2年前に大手メーカーを定年退職しました。 60歳の時に受け取った退職金2,200万円は手元に残り、現在の年金受取額は月18万円です。
健一さん一人の年金で夫婦の生活費を賄い、妻・和子さん(65歳・仮名)の年金のほとんどは貯金に回せているといいます。 住宅ローンも完済しており、老後の資金計画に大きな不安はありませんでした。
「退職してすぐのころは、毎日が日曜日だと思って楽しんでいました。でも、1年も経たないうちに、妻との会話がなくなっていることに気づいたんです」
健一さんは当時を振り返り、どこか晴れない思いを抱えていたと語ります。 妻の和子さんとは結婚して35年。 現役時代の健一さんは典型的な仕事人間で、平日は深夜に帰宅し、週末はゴルフや接待に明け暮れました。 家庭のことや子どもの教育は、すべて和子さんに任せきりだったといいます。
「いざ一緒に過ごす時間が増えても、共通の話題があるわけではない。テレビのニュースについて一言二言交わすだけで会話は終わる。別に夫婦仲が冷え切っているわけではないけれど、同じ空間に他人がいるような感覚でした」
転機は、和子さんがリビングのテーブルに置いた一冊のエンディングノートでした。 和子さんは「近所の友人が書き始めたから、うちも一応ね」とだけ言い、健一さんに手渡しました。
「正直、ギョッとしました。終活なんて死に際にやるものだと思っていたから。『まだ死ぬ気なんてないよ』と笑って返そうとしたのですが、妻の表情が意外と真剣だったんです。暇つぶし半分に、まずは自分の経歴や資産の状況から書き始めることにしました」
健一さんは、ノートの項目に従ってペンを進めていきました。 預金口座、保険の証券番号、不動産の権利関係。 そこまではスムーズでしたが、ノートの後半にある「パートナーへのメッセージ」という欄で手が止まってしまいます。
「最初は、本当に思いつかなくて。結構な時間を要しました。でも過去を振り返るうちに、15年前の私の病気のことや、親の介護の時のことが浮かんできたんです。当時は当たり前だと思っていましたが、妻がどれだけ踏ん張っていたか、初めて客観的に考えることができました」
数日後、健一さんは和子さんに「ここだけ読んでほしい」と、書きかけのノートを見せました。 そこには資産の多寡ではなく、これまで口にできなかった具体的な感謝の言葉が綴られていました。
「『あの時、黙って支えてくれて助かった』と書きました。そういえば、結婚して以来、感謝らしい感謝を伝えたことはなかったですね。妻は照れくさそうに笑いながら読んでくれました」
これを機に、二人はノートを挟んで対話を進めていきました。 延命治療の希望や葬儀の形式といった「死」の話から派生し、話題は「これから二人で行きたい場所」や「現役時代に抱えていた不満」にまで及んだといいます。
「終活を進めていくなかで、色々と反省することがありました。私は『夫婦なんだから言わなくてもわかる』と思っていましたが、そんなことはなかった。たとえ夫婦であっても、言葉にしないと伝わらないことばかりです。終活は事務的な準備というより、私たちにとっては35年間の答え合わせのような時間でした」
健一さんは現在、そのノートを「これからの計画書」と呼び、和子さんと共に更新を続けています。