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肩書を失った日
都内在住の田村浩一さん(60歳・仮名)。大学卒業後に大手メーカーに就職。営業部長を務めたのち、60歳定年で会社を去る決断をします。3,200万円の退職金、4,000万円を超える金融資産、さらに65歳から受け取れる年金は20万円強。住宅ローンも完済していて、数字だけみれば順調な老後が約束されていました。
「家計は問題ないんです。むしろ、妻には『心配しすぎ』といわれます」
金銭的な心配は何ひとつない。しかし定年後の生活は、思い描いたようなものではなかったといいます。
「誰からも連絡がないんですよ。誰からも」
現役時代、田村さんにはひっきりなしに連絡が入っていました。部下からの報告、取引先からの相談、本社からの指示。会議は1日に3~4つは必ず入っていて、よく「田村さんのアポを取るのが一番難しい」といわれていたほどだったそうです。
しかし、退職から3ヵ月。その間に受け取ったメールは、通販の広告と自治体の防災メールだけでした。
「最初は解放感を味わっていましたが、1ヵ月もすると違ってきた。自分がいなくても会社は普通に回っている。もちろん、誰からも連絡がないのは、きちんと引継ぎをしてきたからであって、当然のことではあるのですが、『ああ、私の代わりはいくらでもいるんだな』と、痛感するしかなかった」
毎日スーツを着て出社していましたが、定年以降、一度もスーツには袖を通していません。持ち歩く名刺もありません。先日、駅前で元部下に偶然会ったときも、会話は数分で終わってしまいました。「今、何されてるんですか?」と聞かれて、言葉に詰まったそうです。
「『何もしてない』と笑うしかないでしょ。あの瞬間が一番きつかった」
肩書きが消えた途端、周囲との距離が変わったと感じるといいます。現役時代は「田村部長」と呼ばれていたのが、いまは単に「田村さん」。呼び名の変化以上に、扱われ方が変わったと本人は語ります。
「会社名は、思っていた以上に自分の一部だったんですよ。取引先と会うときも、肩書きが信用そのものだった。今はそれがない。自分が何者かわからないまま、ぼんやり時間が過ぎていくのが、本当にツラいです」
収入減よりも、役割の消失のほうが重い──退職後、趣味を増やそうとゴルフサークルに参加しましたが、そこでも話題は現役時代の仕事の話ばかりになってしまう。
「結局、過去の肩書きでしか自分を説明できない。これが定年後の現実なのかと思い知らされているところです」
そのような状況のなかにいる田村さんに対して、妻は今まで通りパートに出かけ、パートのない日には趣味のサークルに出かける。そこには田村さんとの時間は特にないといいます。
「家族には家族の、それぞれの時間がある。定年を迎えたからといって、私との時間ができるわけではない。必要とされていない感じ──これが一番こたえます」