(※写真はイメージです/PIXTA)
「たまには贅沢しよう」元教師の父の買い物カゴに入っていたのは……
「父は規律や品格を何よりも重んじる人でした。現役時代はジャージで外を歩くことさえ嫌がるような性格だったんです。だからこそ、スーパーで見たあの姿は、私にとって衝撃以外の何物でもありませんでした」
パート主婦、渡辺真理子さん(48歳・仮名)。実家で1人暮らしをする父・高橋修一さん(78歳・仮名)の様子を見に行った、昨年の12月。その日は年金支給日でした。
数年前に母を亡くしてから、広い一軒家で独居を続ける父。真理子さんが訪ねると、父は珍しく上機嫌で「鍋にするか、それとも刺身がいいか」と誘ってきました。2人は並んで近所のスーパーへ向かいます。
修一さんは元教師で、退職金は2,400万円。年金は月20万円ほどあり、老後は安泰だと思われていました。買い物中も背筋を伸ばし、店員に軽く会釈をする姿は、かつての「小学校の先生」そのものです。
しかし、鮮魚コーナーに差し掛かったとき、父の足がピタリと止まりました。父の視線の先にあったのは、本マグロの中トロ。艶やかな赤身は美味しそうですが、値段はそれなりにします。 「お父さん、これにする?」と真理子さんが手を伸ばそうとしたその時、父が小さな声で制しました。
「……いや、もう少し待とう」
父は腕時計をチラチラと気にしながら、鮮魚コーナーの周りをゆっくりと旋回し始めました。そして数分後、店員がバックヤードから出てきて、「30%引き」「半額」のシールを貼り始めた瞬間、父は早足で近づき、慣れた手つきでシール付きのパックをカゴに入れたのです。
「『味なんて変わらんからな、賢く生きないと』と笑う父の笑顔が、どこか卑屈に見えてしまって……。昔なら『お客様に見られたら恥ずかしい』なんて言っていた人が、なりふり構わず半額シールを待っている」
実家に戻り、夕食の準備を手伝っていたときのことです。修一さんがお風呂に入っている隙に、リビングの座卓の上に置かれた通帳が目に入りました。 開きっぱなしのページには、今日振り込まれたばかりの年金の記帳がありました。2カ月分で約40万円。現役世代から見れば十分な金額です。しかし、真理子さんが息を呑んだのは、その横にあるメモ書きでした。
固定資産税:今月積立 30,000円
自宅外壁塗装ローン:35,000円
冬期光熱費(灯油代含):32,000円
医療費・薬代:15,000円
孫への入学祝い積立……
築40年を超える立派な日本家屋は、維持するだけで莫大なお金がかかります。さらに、退職金で直した外壁のリフォームローンや、一人暮らしには広すぎる家の冷暖房費。かつての「2,400万円」の退職金は、母の闘病費用と葬儀、そして家の修繕費でほぼ底をついていたのです。
「入ってくる額は多いけれど、出ていく額はもっと多い。父が半額の刺身を選んだのは、ケチになったからじゃなかった。そうしないと、私にご馳走する余裕なんて、どこにもなかったんですよね……」