認知症の介護において、多くの家族が直面するのが「妄想」や「不可解な言動」への対応。良かれと思って事実を伝えても、かえってご本人が興奮してしまい、精神的に追い詰められてしまう……そんなケースも珍しくありません。真面目に向き合うことだけが必ずしも正解とは限らない、ある女性のケースを見ていきます。
「俺は指名手配犯だ」と怯える父に「一緒に逃げよう」と決めた娘。80歳・認知症父に訪れた劇的な変化 (※写真はイメージです/PIXTA)

警察が来ちまう! 早く裏口から逃げないと!

「父の『事件』は、だいたい夕方のニュースの時間帯に発生するんです。テレビを見ていると突然、『おい、俺の名前が出てるぞ!』って血相を変えて立ち上がる。もちろん、そんな事実はありません」

 

都内在住のパート主婦、田中洋子さん(52歳・仮名)。現在、実家に戻り、80歳になる父・修造さん(仮名)と2人暮らしをしています。母が3年前に他界してから、修造さんの認知症が進行。「自分は誰かに追われている」「警察に捕まる」といった被害妄想や追跡妄想が出始めました。

 

「最初は私も必死で否定していました。『お父さん、何もしてないでしょ』『テレビは関係ないよ』って。でも、否定すればするほど父は興奮して、『お前はあいつらのグルか!』なんて怒鳴り散らす。毎日が修羅場でした」

 

真面目な性格だった修造さんは、現役時代は公務員。「不正」や「法」に対して過敏な部分があり、それが認知症の症状として歪んだ形で現れたのか……洋子さんは当初、正論で父を落ち着かせようと試みましたが、それは火に油を注ぐだけでした。疲弊しきった洋子さんがたどり着いたのが、「共犯者になりきる」という奇策です。

 

「ある日、もう面倒くさくなって『わかった、お父さん逃げよう!』って言ってみたんです。そしたら父が『おぉ、洋子は味方か』って、急に冷静になって」

 

それ以来、洋子さんの家では奇妙な逃亡劇が繰り返されています。 父が「指名手配された」と騒ぎ出すと、洋子さんはすかさず「大変! すぐ荷物をまとめて!」とボストンバッグを広げます。中に入れるのは、着替えではなく、父の好物の煎餅とタオル、そして携帯ラジオ。「裏山(実際は庭)に隠れましょう」とカーテンを閉め切り、部屋の電気を消して2人で息を潜めるのです。

 

「暗闇の中で2人して煎餅を食べていると、なんだかおかしくて。父も『これで一安心だ』と満足して、そのうちイビキをかいて寝てしまいます」

 

側から見れば滑稽な光景かもしれません。しかし、洋子さんにとっては父の不安を取り除き、つらい介護を楽しむための防衛策だといいます。