(※写真はイメージです/PIXTA)
「俺の生きがいを奪う気か!」父の猛反発と、娘の焦り
都内・兼業主婦の田中由美さん(48歳・仮名)。実家で1人暮らしをする父、佐藤健一さん(75歳・仮名)の運転免許返納をめぐるトラブルについて教えてくれました。
健一さんの愛車は、30年前に購入した真っ赤な国産スポーツカーです。定年退職してからは、その溺愛ぶりに拍車がかかっていました。週末になればガレージに籠もり、専用のクロスでボディを磨き上げるのが日課。「このフェンダーの曲線が美しいんだ」と、細部のパーツについて語り出すと止まりません。雨の日には絶対に走らせず、まるで宝物のように扱っていました。
しかし、75歳という年齢を迎え、由美さんは父の運転に不安を覚えるようになります。きっかけは、テレビで高齢ドライバーによる暴走事故のニュースを見たことでした。健一さんは若いころから運転が好きで、今も毎日のようにハンドルを握っています。大きな事故こそありませんでしたが、最近では車庫入れでバンパーを擦ったり、由美さんが助手席に乗った際にヒヤリとするタイミングで右折したりすることが増えていたといいます。
「お父さん、もうそろそろ免許を返したら? 何かあってからじゃ遅いし、維持費だって馬鹿にならないでしょ」 由美さんがそう切り出すと、健一さんの顔色は一変しました。 「勝手に年寄り扱いするな! 目だって見えているし、反射神経も衰えていない」
そう反論されても由美さんは一歩も引きませんでした。「じゃあ、車を手放す必要はない。ただ免許は返納しましょう。何かあってからじゃ遅いから」と食い下がりますが、「バカ言え、乗れない車にどこに価値があるんだ。走ってなんぼだろ車は」と健一さんも譲りません。そこから半年間、由美さんは実家に帰るたびに返納を迫り続けました。維持費の試算表を見せたり、孫から「危ないからやめて」と言わせたり、まさに家族総出での説得でした。
根負けした健一さんが、渋々警察署へ向かったのは先月のことです。「もういい、お前たちの好きにしろ」。そう吐き捨てた父の背中は、ひどく小さく見えたそうです。しかし、由美さんは「これで安心だ」と胸をなでおろしていました。
それから1ヵ月ほどが経ったころ。「免許がなくなって不便だろうから」と、由美さんは久しぶりに父が好きだった自動車雑誌の最新号をお土産に実家を訪れました。 しかし、玄関を開けた瞬間、異変を感じました。いつもなら微かに漂うワックスやオイルの匂いがしません。リビングに入ると、健一さんはソファに深く沈み込むように座り、消えたテレビ画面をぼんやりと眺めていました。
「お父さん、元気? ほら、新しい雑誌買ってきたよ」 努めて明るく声をかけましたが、父はチラリと雑誌を見ただけで、「ああ……そこに置いといてくれ」と力なく呟いただけでした。以前なら眼鏡をかけ直し、すぐにページをめくってエンジンのスペックについて熱弁していたはずです。ふと庭のガレージを見ると、あのピカピカだった赤いスポーツカーに、うっすらと埃が積もっているのが見えました。
「磨くくらいはしていると思ったのに……」
由美さんはショックを受けましたが、同時に苛立ちも覚えました。
「ただ運転できなくなっただけじゃない。なんでそれだけで、すべてを投げ出すなんて」
父の心の中で何が折れてしまったのか。由美さんには、目の前にいる父の無気力さが、単なる「運転ロス」以上のものに見えたといいます。