老後の安心のために築いた資産が、逆に現在の生活を窮屈にしてしまうことがあります。十分な蓄えがあるにもかかわらず、将来への過剰な不安から「使わないこと」が目的化してしまうケースは少なくありません。ある元部長の極端な節約生活の実態を通して、後悔しないための老後のお金との向き合い方について解説します。
「すまん、暖房消していいか?」月600円をケチる〈退職金3,000万円〉〈年金月26万円〉の66歳元部長、預金通帳に残された「衝撃の残高」 (※写真はイメージです/PIXTA)

寒かったら厚着を…過度な節約に辟易

都内に住む田中健二さん(66歳・仮名)は、誰もが認める「勝ち組」の定年退職者です。有名大学を卒業後、大手製造業に入社。順調に出世し、営業部の部長として組織を率いていました。60歳定年時に受け取った退職金はおよそ3,000万円。現役時代の蓄えと合わせると、金融資産は5,000万円近くに達します。さらに、厚生年金の受給額は月19万円ほどで、夫婦合わせた年金収入は月約26万円。住宅ローンも完済済みです。

 

世間で騒がれた「老後2,000万円問題」など、田中家には無縁の話。しかし、妻の洋子さん(63歳・仮名)の話から見えてきたのは、その豊かな資産状況からは想像もつかないほど「窮屈」な生活の実態です。洋子さんによると、健二さんの口癖はここ最近、「インフレ」と「防衛」だといいます。

 

「夫はニュースで物価高の話題が出るたびに過剰に反応するんです。『今はよくても、これから先どうなるかわからない。物価が上がれば、今の資産価値なんて目減りする一方だ』と言って、現役時代の部長職さながらに家計のコストカットを求めてきます」

 

その「コストカット」の矛先は、日々のささやかな日常に向けられています。急激に冷え込む朝。リビングで過ごしていた洋子さんに対し、健二さんは真顔でこう言ったそうです。

 

「すまん、暖房消していいか? まだ11月だぞ。厚着すればなんとかなるだろ」

 

洋子さんが寒さを訴えても、「電気代が上がっている現実を見ろ」と取り合ってくれません。健二さんが暖房を消すことで節約しようとした金額は、稼働時間を計算しても月にしてわずか600円程度だったといいます。数千万円の資産を持ちながら、数百円を削るために家のなかでダウンジャケットを着込む生活。洋子さんは「理解に苦しむ」と語ります。

 

節約のメスは食費にも入りました。以前は産地や品質を気にして選んでいた食材も、今では「可能な限り安く買う」が基準です。外食も「家で食べるのが安上がり」とほとんど行かなくなりました。

 

そんな極端な節約生活を続けた結果、田中家の家計には奇妙な現象が起きています。洋子さんが管理を任されている預金通帳の残高です。

 

「退職して6年経ちますが、資産が減るどころか、現役引退直後より増えているんです。年金だけで生活費が収まっているうえに、夫が極端に出費を嫌がるので、お金がただ積み上がっていくだけで……」

 

本来、老後は資産を取り崩しながら人生を楽しむ時期のはずです。しかし田中さんの場合、通帳の数字が増えることが唯一の精神安定剤になっているようです。「これだけあれば安心だ」と笑う夫に対し、洋子さんは「使うあてのないお金を死ぬまで守り続けて、私たちは何のために我慢しているのでしょうか」と、諦めにも似た感情を抱いています。