「はい」と返事はするのに、指示と違うことをしてしまう部下。文字は読めるはずのに、簡単な文章の意味が理解できない子ども。これらの根底には、単なる「読解力不足」ではなく、言葉の意味を頭の中でイメージとして再構築する「心内表象化」のつまずきがあるのかもしれません。本記事では、船津洋氏著『「地頭力」を鍛える子育て: 自ら学び、考える力がアップする確かな方法』(大和出版)より、「読める」と「分かる」の間にある深い溝と、その溝を埋めるために必要な認知の仕組みについて解説します。
「教科書が読めない子」が増加…日本の子どもたちを蝕む“見えない学力低下”の正体 (※写真はイメージです/PIXTA)

「読めても分からない子」の根本原因

おそらくあなたも「読める」のではないでしようか。しかし「理解できない」。日本の子どもたちは、国語でこの状態に陥っている可能性が高いことを、先の書籍は示唆しています。表情や行動など表面的に見えているものからは、思考の内容は判別できません。子どもたちは小学校中学年になれば教科書は問題なく読めるようになります。

 

しかし、この「音韻符号化」は、「理解」を前提にしていません。あくまでも文字記号を音声記号に変換する作業に限定しています。そして「音韻符号化はできているが、心内表象化ができていない」、という状態が生じるのです。これを「読解力の欠如」と表すこともありますが、正確にはそうではありません。彼らには少なくとも「読力」はあるのです。しかし、「解」の字が抜け落ちているのです。

 

国語の教科書を、すらすらと読んでいる子どもの様子を目の当たりにしている先生、あるいは親たちはどう感じるでしょうか。おそらく、「この子は読める」と判断するでしょう。一般に「読める」とは「理解する」を含意しているので、読んでいる子を見れば、それは「分かっているんだ」と判断するのは、極めて自然なことです。

 

しかし、現実には「音韻符号化」と「心内表象化」は2つの別の作業であることを、教育現場も親たちも理解しなくてはいけません。このことに気づかなければ「読めるけど分からない」という子どもの状態が、「読解力の欠如」という誤った判断、そして、それに基づく対策として、読書量を増やすという安易な策に委ねられるか、あるいはまったく気づかれないまま放置されてしまうのです。

 

結果、「理解力」が未熟なことに、先生も、親も、さらには当の子どもたちも気づかないまま「何かがおかしい」状態で学年だけ上がっていくのです。これでは、受験どころではありません。しかし、試験の期日は迫ってきます。そして、学校教育も塾も理解力の低い子どもたちに対応すべく、「記憶」に頼る教授法が広く行われるようになるのです。

 

 

船津 洋

株式会社児童英語研究所

代表取締役所長