相手の意図を察し、「空気を読む」ことを美徳とする日本の文化。しかし、その環境が、私たちの「論理的思考力」を育ちにくくしているとしたら、どうでしょうか。なぜ日本人は「なぜなら」や「だから」で筋道を立てて話すことが苦手なのでしょう。本記事では、船津洋氏著『「地頭力」を鍛える子育て:自ら学び、考える力がアップする確かな方法』(大和出版)より、その文化的背景と、子どもたちの未来のために大人が意識すべきことについて解説します。
若者が使う「やばい」という言葉の本当の“やばさ”…日本人の子どもに「論理性」が身につかない根本原因 (※写真はイメージです/PIXTA)

日本文化は論理性が育ちにくい文化

日本は「ハイコンテキスト文化」圏だと言われます。ハイコンテキスト文化とは、「言語以外の文脈(コンテキスト)に多くを依存する文化」で、非言語(仕草・見た目)、前提共有・暗黙の了解が重視される文化のことです。かみ砕いてお伝えすると、はっきりと定義を共有していなくても、なんとなく伝えられる(伝わってしまう)文化のことです。

 

その対極には「ローコンテキスト文化」があり、これはアメリカやヨーロッパなどさまざまな異なる文化、思想、行動様式の人たちが隣り合って生活する領域です。こちらは、生まれも育ちも違えば、まったく違う文化圏から来る人たちが集まって、そこで、自らも、そんな社会の一員となって他の人たちと(できれば)仲良く暮らそうとします。

 

言い換えると日本は「以心伝心」「阿吽の呼吸」なので「空気を読む」ことができる人の集団かもしれません。これはこの国の特徴であって、世界、特にアメリカとはまるで異なります。アメリカでは意見を述べるのであれば、その前提条件から「論理性」をもって、結論まで筋道を立てて説明しなければ相手は分かってくれません。

 

論理性とは、簡単に言えば、「筋道を立てて、一貫性のある思考を組み立て、妥当な結論に導ける力」です。「だから」「つまり」「なぜなら」がきちんとつながっている考え方ができる力です。日本人は、子どもが言っていることに、「つべこべ言わない」と言ってみたり、あるいは「だから最近の若いものは」「人としてどうなの?」など、価値観の押し付けなどにつながることを言ったりすることがあります。

 

こうした発言には、もちろん論理性はありません。ですがそれを当たり前と思うような人たちの間では、思考や納得に至るための「論理的プロセス」が省略され、有無を言わせない一方的な支配的コミュニケーションが行われています。結果として、理解・対話・思考・自己決定といった、人間的成熟の機会が欠如してしまうのです。