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増えた年金、しかし失われた「生きがい」…70歳の誤算
「通帳に記帳して……金額は確かに増えている。でも、このお金を何に使いたいのか、どこかへ行きたいのか、そういう気持ちがまったく湧いてこなくて。何のためにあんなに頑張ったんでしょう、わたし」
田中義男さん(70歳・仮名)。建設会社で現場監督として長年働き、65歳で定年を迎えたあとも、請われて関連会社で週4日の勤務を続けていました。体力にも自信があり、「まだまだやれる」という自負と、実際に十分な収入があったことから、年金の受給開始は深く考えずに70歳まで繰り下げることを選択しました。
厚生労働省『令和5年度 厚生年金保険・国民年金事業の概況』によれば、令和4年度末時点で繰下げ受給を選択した人の割合は、老齢厚生年金で1.6%とまだ少数派ではあるものの、その割合は年々増加傾向にあります。1ヵ月繰り下げるごとに年金額は0.7%増額され、70歳まで繰り下げれば42%、75歳までなら84%も増えるというメリットは、確かに魅力的です。
田中さんも「引退したら、増えた年金で夫婦でのんびり海外旅行でも行こう」と、明るい未来を描いていました。しかし、70歳で完全に仕事を辞めたあと、生活の歯車は狂い始めます。
「最初の少しの間は、解放感でいっぱいでした。でも生活に張り合いがなくなった、毎日が日曜日、というのは想像以上に苦痛だったのかな」
朝、決まった時間に起きる理由がない。スーツに着替えることも、誰かと仕事の電話をすることもない。社会との接点がぷっつりと切れ、時間だけが無限にあるような感覚に陥りました。あれほど好きだったゴルフの道具は玄関の隅で埃をかぶり、旧友からの誘いの電話も、なぜか億劫に感じてしまう。夜は寝付けず、妻が作ってくれる食事も「美味しい」と感じられない日々が続きました。
2ヵ月に一度の年金受給日には、2ヵ月分、50万円近い金額が記帳されています。しかし増額された年金額を見ても、田中さんの心は少しも動きませんでした。
「お金は確かにあるんです。余裕もあるし、安心感もある。でも、それを使う気力がない。妻には申し訳ないけれど、何もする気が起きないんです」
その後、田中さんは軽いうつ傾向にあると診断されたといいます。