(※写真はイメージです/PIXTA)
夫の定年退職を前に募る老後不安
「この間、結婚記念日だったんです。だから、たまには少し良いお店で食事でも、と夫に提案したんです」
鈴木裕子さん(62歳・仮名)。結婚38年、来年には夫の明男さん(64歳・仮名)が定年退職を迎える、ごく普通の夫婦です。
「そうしたら、『記念日だから外食にしよう』と言うので、私も少し期待してしまって。でも、連れて行かれたのは、いつものファストフード店でした。美味しいんですよ、ハンバーガーにポテトにサラダ。新鮮野菜を使っていると評判だし、本当に美味しんです。でも、なんだか急に悲しくなってしまって。心から『ありがとう』って、笑えなかったんです」
うっすらと涙が浮かぶ裕子さん。「結婚記念日に、ファストフードなんて、ねぇ……」と大きなため息をひとつ。
明男さんは、真面目を絵に描いたような男性だといいます。若い頃からコツコツと働き、子どもたちを育て上げ、今は夫婦2人暮らし。役職がなくなったいま、年収は約500万円。子どもが独立し、住宅ローンも完済した今、ようやく家計に余裕が出てきた、と裕子さんは感じていました。
「昔は、子どもの教育費やローンの返済で大変でしたから、節約は当たり前でした。でも、もうそこまで頑張らなくてもいいんじゃないか、って思うんです。夫はあと1年で退職。退職金も2,500万円ほど出る予定だと聞いています。65歳からは夫婦2人で月30万円ほどの年金も受け取れます。少しは、今まで我慢してきたことを楽しんでも罰は当たらないでしょう?」
かつて、旅行が好きだったという裕子さん。せめて近場の温泉にでも、と誘っても、明男さんは首を縦に振りません。
――インフレがどうなるか分からない
――家の修理や家電の買い替えで、まとまった金が急に必要になるかもしれない
――老後こそ、何があるか分からないんだから、とにかく節約だ
裕子さんが「少しくらいは――」と提案しても、「その少しが命取りになるんだ」と聞く耳を持ってくれません。裕子さんのささやかな願いは、夫にとっては「贅沢」であり「浪費」。その価値観の溝は、退職が近づくにつれて、より深く、広がっているように感じられるといいます。
「感謝しています。夫のおかげで、老後の心配はない。夫が先にいなくなってしまったら、私の年金だけでは心許ない、という彼の心配も分かる。でも、健康でいられる時間だって、限られているじゃないですか。ただお金を貯め込むためだけに、この先の人生を生きていくのかと思うと、息が詰まりそうで……」
年金夫婦で月30万円だが…募るばかりの老後不安
不透明な世界情勢、止まらぬ物価高。一方で、長寿化により日本人の老後は延びるばかり。老後に不安を募らせるのは、裕子さんの夫だけではありません。極端な節約癖を裕子さんに押し付けるのも分からなくはないでしょう。
総務省統計局『家計調査 家計収支編 2024年平均』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯の消費支出は、可処分所得22万2,462円に対し、25万6,521円。毎月3万円ほど赤字になる計算です。この赤字は、退職金やこれまでの貯蓄から補填していくことになります。
さらに、これはあくまで「平均的な」生活費です。公益財団法人 生命保険文化センター『2022(令和4)年度 生活保障に関する調査』によると、夫婦2人で老後生活を送る上で必要と考えられている最低日常生活費は月額で平均23.2万円。これに対し、「ゆとりのある老後生活」を送るための費用は、月額で平均37.9万円だといいます。
この「ゆとり」の内訳として最も多いのが、「旅行やレジャー」(60.0%)。「日常生活費の充実」(48.6%)、「趣味や教養」(48.3%)と続きます。もし鈴木さん夫婦が、裕子さんの望むような「たまの温泉旅行」や「少し良いお店での食事」といった「ゆとり」を求めるのであれば、年金収入30万円では不足してしまいます。
また退職金の2,500万円は決して小さな額ではありません。しかし、毎月3万円の赤字を補填し、さらにたまに贅沢をし、ここに明男さんが懸念する「家の修繕費」「家電の買い替え」「インフレによる物価上昇」、さらには予測不能な医療費や介護費用といったリスクが加わると、あっという間に底をついてしまう……そんな心配でいっぱいになっても仕方がないかもしれません。
64歳の明男さんにとって、「老後」は目の前に迫った現実です。長年家族のために働き続けてきたからこそ、ようやく手にする退職金を易々と目減りさせたくない、という強い思いがあるのかもしれません。
裕子さんの「今を楽しみたい」という気持ちと、明男さんの「将来に備えたい」という気持ち。どちらが正しいというわけではありません。しかし、人生100年時代といわれる現代において、退職後の生活は想像以上に長い道のり。ただ節約を続けるだけの日々が、夫婦の心の距離までをも蝕んでしまわぬよう、お互いの価値観を丁寧にすり合わせていく作業が求められていきそうです。
[参考資料]
総務省統計局『家計調査 家計収支編 2024年平均』
公益財団法人 生命保険文化センター『2022(令和4)年度 生活保障に関する調査』