家族のため、会社のためと仕事に邁進し、長年の単身赴任にも耐えてきた。定年を迎えれば、ようやく穏やかな暮らしが手に入る――。しかし、その長年の犠牲が、かえって家族との間に取り返しのつかない溝を生んでいたとしたら。高収入のエリートサラリーマンが直面した定年後の厳しい現実は、決して他人事ではない、現代の多くの家庭に潜む問題なのかもしれません。
定年後も働けだと…〈月収65万円〉55歳サラリーマン、「孤独な単身赴任」の果てに見た地獄。妻の残酷すぎるひと言に絶句 (※写真はイメージです/PIXTA)

「そんなの聞いてないぞ!」…娘の進路、そして妻からの追い打ち

ある日の夜、優子さんとの電話で定年後の生活について話していたときのことです。達也さんが「あと5年頑張れば、ようやくのんびりできるな」と、いつものように期待を込めて切り出すと、受話器の向こうから、予想もしない言葉が返ってきました。

 

「定年で仕事を辞めるつもりなの?」

 

一瞬、何を言われたのか理解できませんでした。「定年後も働けだと!?」、聞き間違いかと思った達也さんを、さらに追い詰めるように優子さんの言葉が続きました。

 

「この前の三者面談で、芽実、第一志望が私立の歯学部だって」

 

「歯学部!?」達也さんは思わず声が大きくなりました。「芽実が? そんなこと、俺は一度も聞いたことないぞ」。娘の進路は、当然文系の大学だとばかり思っていました。いつの間に理系を選び、ましてや学費が高いことで知られる歯学部を志望するようになったのか。何より、なぜそんな大事なことを自分は知らされていないのか。

 

「なぜ相談の一つもなかったんだ!」と、少々感情的になる達也さんに優子さんは静かに返します。

 

「相談したって、あなたに何がわかるの?  毎日顔を合わせているわけでもないのに。芽実がどれだけ勉強してきたか、どんな思いで決めたかも知らないでしょう」

「だとしても、私立の歯学部なんていくらかかると思ってるんだ。定年も近い俺に、どうしろって言うんだよ」

 

文部科学省の資料によると、私立文科系学部の初年度納付金は平均119万4,841円、理科系学部は153万0,451円。そして歯学部は321万8,227円と、文系平均、理系平均と比べて、随分と学費が高くなっています。達也さんが驚きの声を上げるのも無理はありません。

 

すると、優子さんは少し間を置いて、芽実さんがなぜ歯学部を志望するようになったかを話し出しました。

 

「あなたが知らないところで、あの子、いろいろ考えてたのよ。介護施設にボランティアに行ったりして…。そこで、お年寄りが自分の歯で食べることがどれだけ大切か、実感したんですって。だから、歯の健康を守るお医者さんになりたいって…」

 

娘が自分の知らないところで、そんなにも真剣に将来のことを考えていたとは――一瞬、胸が熱くなります。しかし、その感動も束の間、再び疎外感が心を覆います。ボランティア活動のこと、そこで芽実さんが何を感じ、何を考えたのか。父親である自分は、そのかけらも知らなかったのです。

 

「立派な理由かもしれないが、それでも学費の問題はどうするんだ。あの子の夢を応援してやりたい気持ちは山々だが、現実問題として……」

「あなた、結局自分のことばかりなのね。芽実がどんな思いでその道を選んだのか、少しもわかろうとしない」

 

達也さんを責める口調に続き、ポツリと、しかし確実に聞こえるように優子さんはつぶやきました。

 

「定年を迎えて戻ってきても、あなたと一緒に暮らすイメージなんてできないのよ」

 

達也さんの家庭で起きているこのすれ違いは、決して特別なことではないのかもしれない。株式会社LIFULL『パートナーとの老後生活に向けた意識調査』によると、「できるだけ二人で長く暮らしたい」と考える人は約8割。「別居したい」「関係を解消したい」は1割ほどでした。また「別居」や「パートナー関係の解消」を希望する回答は女性が約6割を占め、夫婦の間で意識に差があることがうかがえます。

 

当たり前のように考えている夫婦の老後。しかし、夫婦で差が生じていることは珍しくありません。

 

[参考資料]

文部科学省『令和5年度 私立大学入学者に係る初年度学生納付金等 平均額(定員1人当たり)の調査結果』

株式会社LIFULL『パートナーとの老後生活に向けた意識調査』