(※写真はイメージです/PIXTA)
助けて…真夜中にみた施設の惨状
安心の日々が終わったのは、入居からわずか2ヵ月が過ぎた頃でした。深夜1時過ぎ、枕元のスマートフォンが振動しました。ディスプレイに表示された「母」の文字に、恵子さんの胸はどきりとしました。
「もしもし、お母さん? どうしたの、こんな時間に」
電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもの穏やかな母の声ではありませんでした。か細く、震える声でした。
「恵子……助けて。怖いの」
ただ事ではないと直感した恵子さんは、パジャマの上にコートを羽織ると、タクシーに飛び乗って施設へと向かいました。約40分後、到着した施設の光景に、恵子さんは言葉を失います。
いつもは静まり返っているはずの深夜のフロアに、複数の怒声や話し声が響き渡っていました。ナースコールがけたたましく鳴り響いていますが、駆けつけるスタッフの姿は見えません。パジャマ姿のまま廊下を徘徊する男性、壁に向かって何かを叫び続けている女性。やっとのことで見つけた若い女性スタッフは、明らかに憔悴しきった表情で、入居者への対応に追われていました。
母の部屋に駆け込むと、正子さんは部屋の隅で膝を抱え、怯えきった様子でうずくまっていました。
「夜中に、認知症の方が何度も入ってきて大声で叫ぶの。昨日は、ベッドのすぐ横に立っていて、本当に心臓が止まるかと思った」
「廊下では一晩中、大声で歌っている人がいて眠れないし、職員さんに助けを求めても、『すみません、今行きます』と言うだけで、誰も来てはくれないのよ……」
一体、何があったのか。恵子さんが事情を聞きたいと職員を探してもなかなかつかまりません。後日、数少ない職員が重い口を開きました。実は正子さんが入居したのは、それまでの施設長が異動となり、新しい施設長が就任したタイミング。施設長が変わったことで、運営方針は大きく変わってしまったそうです。
新しい施設長は、親会社から送り込まれたコストカット至上主義。人件費の削減を掲げ、さまざまなことに口を挟んできます。サービスよりも運営コスト。それに反発した経験豊富な職員たちが、次々と辞めていってしまったのです。
公益財団法人介護労働安定センター『令和4年度介護労働実態調査結果』によれば、介護職員の離職率は14.4%にのぼり、人手不足感は職種全体の平均で66.3%と高水準で推移しています。介護業界全体が慢性的な人手不足という課題を抱えるなかで、運営体制の急な変更により現場が崩壊することも。
補充されるのは経験の浅い若い職員ばかりで、しかも数は足りていません。これでは、まともな介護サービスが提供できるはずもありませんでした。
「施設の清潔さや月々の費用、見学したときの雰囲気だけで安易に決めていました。そこで働く『人』のこと、運営体制がどうなっているのかということなんて、気にもとめていなかった――本当に愚かでした」
恵子さんはすぐに母を退居させる手続きを取りました。これから母とどう暮らしていくのか、本当に老人ホームという選択が母のためになるのか。いったん自宅に連れ帰り、もう一度、母と二人でじっくりと話し合っていくつもりだといいます。
[参考資料]
内閣府『令和7年版高齢社会白書』
公益財団法人介護労働安定センター『令和4年度介護労働実態調査』