
まさに青天の霹靂…突然叩きつけられた「離婚届」に夫は
国家公務員のなかでも「エリート」と呼ばれるキャリアを歩んできた田中正雄さん(仮名・67歳)。定年を迎えたあとは民間企業から声がかかり、いくつか企業の顧問を務めてきました。しかし、気が付くと同年代の多くが年金生活を送っている――長い間、仕事に集中してきたが、自分もそろそろ引退し、静かな老後を過ごしてもいいのではないか――そう考えるようになったといいます。
「裕子、長い間ご苦労だったな。仕事は辞めることにしたから、二人でゆっくり旅行でも行こうじゃないか」
リビングでテレビを見ていた妻の裕子さん(仮名・60歳)に、少しばかりの気恥ずかしさと優越感をないまぜにしながら声をかけます。これからは、退職金と年金で悠々自適の生活が待っている。その計画を妻と共有し、労をねぎらってやろう。正雄さんはそう考えていました。
しかし、裕子はテレビから視線を動かさずに、リモコンで音量をひとつ下げただけでした。そして、ゆっくりと立ち上がると、リビングのサイドボードから一枚の白い紙を取り出し、正雄さんの前のテーブルに置きました。
「離婚届」
その三文字が、正雄さんの目に飛び込んできます。一瞬、何かの冗談かと思いました。 「おい、なんだこれは。冗談か?」。 正雄さんがかすれた声で言うと、裕子は初めて夫の顔を真っ直ぐに見ました。その瞳には、何の感情も浮かんでいません。
「本気です。ここに署名と捺印をお願いします。それから、これも」 続けて置かれたのは、「財産分与請求調停申立書」と書かれた書類のコピーでした。
「退職金は5,000万円ほどありましたね。貯金も4,000万円ほどあります。その半分はいただきますので」
正雄さんの頭の中は真っ白になりました。長年連れ添い、自分の引いたレールの上を黙ってついてくるだけだと思っていた妻からの、あまりに突然で、そして冷徹な宣告。なぜ、どうして。彼には、妻がこれほどの決意を固めるに至った理由が、まったく理解できませんでした。
このような熟年離婚は、決して珍しい話ではありません。厚生労働省『令和4年(2022)人口動態統計』によると、離婚17万9,099件のうち、同居期間20年以上の離婚は3.9万件ほど。離婚の4分の1弱は熟年離婚が占めています。子育てがひと段落し、夫の引退という節目をきっかけに、妻が自身の人生を見つめ直し、新たな一歩を踏み出すケースも少なくないでしょう。
正雄さんにとって、家庭は自分が稼いだ金で守られるべき「城」であり、妻はその城を管理する家政婦のような存在だったのかもしれません。これまで裕子さんが不満を口にするのを聞いた記憶がありません。しかし、それは不満を感じていなかったのではなく、正雄さんがその声に耳を傾けてこなかっただけだったのかもしれません。