社会との断絶は、個人だけでなく、社会全体にとっても深刻な課題です。大学を卒業しても社会統合の壁に阻まれる人々がいます。本記事では、岡本圭太氏の著書『ひきこもり時給2000円』(彩流社)より、氷河期という時代を背景にとって、結婚式はお祝いごとであると同時に、社会的なプレッシャーを感じる特別な空間。長らく社会との繋がりを絶っていた彼が、なぜ友人の結婚式への出席を決めたのでしょうか?
早稲田大卒・氷河期世代、31歳で人生初「友人の結婚式」…元ひきこもりの目に映った「まさかの光景」 ※画像はイメージです/PIXTA

「結婚式」で理解した、小さな積み重ねの大切さ

こうして、大人になってからの初めての結婚式を、31歳にして経験したわけだが、次の試練は翌年の7月にやってきた。こんどは親戚の結婚式。2歳上の従兄である。

 

親戚の結婚式が前回のそれと違うところは、列席する人たちの顔触れが友人の結婚式とはまったく違うという点である。まわりにひきこもりの経験者なんてまるでいないし、いるのは親戚多数に、新郎新婦の友人や勤め先の人など、勝手のわからない人ばかり。正直、今回も「めんどくさいな」と思った。でもそれでもわざわざ福岡まで行こうと決めたのは、結婚する従兄とは昔から仲が良くて、事前に彼から、「圭ちゃんにはぜひ来てほしい」とラブコールを受けていたからである。そういう特別な理由でもないと、なかなか足は向かない。

 

親戚の結婚式ということで、「この前とは勝手が違う」といろいろ不安を抱いていたのだけれど、蓋を開けたら、それら事前の心配は、ただの杞憂に終わった。というのは、「親戚の結婚式なんてただ座ってメシ食ってりゃいいだけなんだ」ということが判明したから。なぁんだ、そんなものか。

 

親類だからといって挨拶を求められることもまったくないし、余興をやるのは新郎新婦の友人だし、親類が結婚式でやることといえば黙ってその場でメシを食ってることぐらいしかなかった。むしろ「何をするか」ではなく、「その場にいること」自体に意義があるかのようだ。そんなわけで、やることがなかったので、同じテーブルの従兄妹たちと、よもやま話を繰り広げる以外は、ただひたすらに出された料理を食べ続けていた。それにしても、あの時の料理は美味かったな。ああいうのだったらまた食べに行ってもいいな。しかしこれじゃ、いったい何をしに行ってるのかよくわからないけれど(まあいいや)。

 

ちなみに、この時は親類や親戚の目はまったく気にならなかった。すでに葬式や法事で何度か顔を合わせていたので問題ナシ。いきなり結婚式だったら難しかったかもしれないけれど、これまでの蓄積がここで生きた格好になった。何事も小さな積み重ね。そしてその小さな積み重ねは、あとになって大きな力を発揮してくれるのだろう。「いきなり全部解決」っていうのは難しいですからね、実際。

 

(2008年1~3月執筆)

 

〈後日附記〉
ひきこもり当事者・経験者の中には、冠婚葬祭が苦手という人は本当に多いですが、ここに書いた文章が何かの参考になってくれれば嬉しいです。

 

 

岡本 圭太