1971年~1974年に生まれた団塊ジュニア世代。好景気に沸く中学・高校時代に描いた“明るい未来”とはかけ離れた現実を生きている人がいます。大卒で証券会社に入社し、出世コースを歩んだ河島誠司さん(仮名)もその一人です。ルポライター増田明利氏の著書『今日、50歳になった 悩み多き13人の中年たち、人生について本音を語る』(彩図社)より、50代の“生の声”を紹介します。

悔しい…年収300万円“元証券マン”の53歳・契約社員が嘆く〈団塊ジュニア世代〉で「社長になる人」と「時給1200円で働く人」の差【ルポ】
バブルが弾け、業績悪化→合併…その先にあった“地獄”
いよいよ厳しくなったのは99年頃から。ノルマを達成できず上司から叱責される、性質の悪い顧客から詐欺師呼ばわりされることも。精神的にも不安定に陥った。
「損失補填しろと怒鳴り込んできた人もいましたよ。実際のところ大手は有力な法人に対して補填していましたからね。皆でインチキ賭博をやっていたわけなんですよ」
そのうち会社の信用不安説が囁かれるようになり、銀行主導で同業他社と合併させられることになった。
「合併と言っても救済合併されたわけだから惨めなものですよ。最初は新しい仲間と共に頑張っていこうと思ったのですが、強烈な合併いじめがありましてね。支店の課長だった先輩が主任に降格されました。過剰なノルマを課され、達成できないとひどく叱責されたこともあり屈辱的でしたね」
同業他社に再就職も、2年半でリストラ…次の会社では「1年契約」に
我慢に我慢を重ね何とか2年近く勤めたが限界に達し退職。このときはまだ31歳と若かったし、それなりの優良顧客を持っていたのでなんとか同業の中堅証券会社に再就職することができた。
ところが不景気が続きリストラ対象に。再就職して2年半ほどでまた失業の憂き目を見ることに。証券外務員資格を所持していたので地場の小さな証券会社に拾われたが条件はきつかった。
「正社員ではなく1年契約の渉外営業専任。成績不良なら解雇という条件だった」
賃金で保障されているのは数万円だけ。あとは歩合というもので諸手当、退職金などはなし。顧客回りに必要な交通費も自腹だった。
「最初の会社にも契約の外務員がいて、その人たちの話ではバブル時代は毎年1,200万円ぐらいは普通に稼いでいたそうです。なかには支店長クラスの年収2,000万円という猛者もいたという話だった。だけど時代も社会情勢も違うわけだからね。わたしは年収300万円が精一杯でしたね。いつお払い箱になるかビクビクしていた」
株価はずっと低迷していたので新しい顧客を獲得するのは困難。売買をする人はそれなりの数いたが、小口の商いなので手数料収入も多くはない。ジリ貧だった。
「証券業界から離れたのは03年の末。数字を出せない外務員はムダ飯食いってこと。切られる前の3か月間は手取りが10万円カスカスだったので仕方ない」