疲れた心身を癒すために訪れることの多い「温泉」。温泉学者であり、医学博士でもある松田忠徳氏は、温泉も食べ物やお肌と同様に「鮮度」が大事であるといいます。松田氏の著書『全国温泉大全: 湯めぐりをもっと楽しむ極意』(東京書籍)より、源泉掛け流しの究極体といわれる「直湧き」の魅力と、直湧き温泉を存分に堪能できる珠玉の旅館を紹介します。
“日本最後の秘湯”乳頭温泉郷「鶴の湯温泉」
■乳頭温泉郷「鶴の湯温泉」(秋田県仙北市)
田沢湖高原の奥、乳頭山麓の先達川が縫うように流れるブナの原生林は、秋の陽光を浴びて黄金色に揺らいでいました。標高800メートル、高原の凜として透き通った大気の緊張感が心地よいこと。
鶴の湯、乳頭、妙乃湯、大釜、蟹場、孫六、黒湯――。ブナ林に点在するこれら7湯からなる乳頭温泉郷は、“日本最後の秘湯”といわれてきました。“秘湯”とは、一般に「辺境の地に湧く俗化されていない温泉」を指します。
温泉通好みの孫六温泉にも直湧きの「唐子の湯」がありますが、目指すは「鶴の湯温泉」です。県道からはずれた山道は途中で未舗装に変わり、広い駐車場に着きます。車から降り立った瞬間、たちまち時代がかった風景の一部に取り込まれ、だれもが思わず驚嘆の声を発してしまうことでしょう。
関所風の門柱の右手で、水車が音を立てながら回る。左手の「本陣」と称する茅葺き屋根の長屋は、江戸時代に秋田藩主が湯治に訪れた際に、警護の武士が詰めた宿舎の面影を未だにとどめるもの。囲炉裏が切られただけの質素な部屋です。とくに若い女性客に人気だといいます。本陣の向かいには杉皮葺きの湯治棟もあります。
本陣の奥に、秋田杉、檜、ヒバ材などをふんだんに使った気品漂う木造建築の「新本陣」と「東本陣」が連なります。
風呂は白湯、黒湯、中の湯、滝の湯。源泉はすべて自然湧出という究極の温泉! これに直湧きの混浴露天風呂と女性専用露天風呂が加わります。いずれも池のような大露天風呂です。
女性露天風呂の湯温は少しあつ目ですが、人気の混浴露天風呂は40度そこそこで、入浴者自身が露天風呂を取り巻く日本の山里の原風景を彷彿とさせる景色の一部になりながら、長湯を楽しめるのは「鶴の湯温泉」の醍醐味でしょう。
私は「鶴の湯」のような自然の風景に溶け込める露天風呂こそ、真の露天風呂と評価します。単に外にある風呂が露天風呂ではないと――。
しかも硫化水素の香りのする乳白色の露天の“山のいで湯”は、癒やし効果も抜群です。スマホやPCで疲れた眼にはもちろん、ナチュラルな直湧きのシルクの感触は肌にも、心にも優しい。
湯上がりには名物「山の芋鍋」をはじめ、地元の山菜、野菜、鶏肉、川魚など健康的な食材をふんだんに使った田舎料理が待ち受けています。
松田 忠徳
温泉学者、医学博士