都営住宅、「桐ヶ丘団地」。建替えにともなう引っ越しでコミュニティは崩壊し、高齢住民たちの生活はガラリと変えられてきました。隣近所の顔がわからなくなった住民たちにとって、「孤独死」という問題は非常に大きなものとなっています。都営団地の実態を、文化人類学博士の朴承賢氏が解説します。※本連載は、書籍『老いゆく団地』(森話社)より一部を抜粋・再編集したものです。
「警察を呼んで入ってみたら」…都営団地と独居老人たちの悲惨な実態 (※写真はイメージです/PIXTA)

現代の孤独死は、人類が経験したことのない「死」

近年、孤独死の問題はメディアでスキャンダル的な事件として扱われたりもするが、近隣の孤独死を経験した住民たちにとって、その不安感は具体的である。孤独死が公然の問題となり、郵便受けからあふれている郵便物はその兆候として疑われたりした。

 

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最近、孤独死に皆が関心を持っているから、郵便物を取らない人がいると(住民たちから)連絡が来ます。私(自治会長)の方で、施設に入ったのか、病院に行ったのかをできるだけ調べる。

 

次に、(管理をしている)住宅供給公社に連絡します。公社は入居する時の保証人に連絡して、何とか調べる。緊急連絡先が区から(自治会長あてに)来る。しかし、それを登録している住民だけで、入居の時に連絡先の電話番号を教えてくれない人もいるから困ります。(2015年8月、鳩山さんへのインタビュー)

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1人暮らしの高齢住民たちは、孤独死の不安から鍵を他人に預けておいたり、緊急ブザーをペンダントにして身に付けたり、病院の予約時間に来ない場合は緊急電話をもらうようにしていた。また、配達員や民生委員、介護ヘルパーなどの協力で安否確認をする、北区の「おたがいさまネットワーク」のようなさまざまな取り組みが進んでいた。

 

「1人きり」で迎える死は、人類の歴史上、「孤独死」に限るわけではない。死にゆく者をめぐる「社会的な表現行為」を描いたアリエスは、中世における呪われた死、道端や水辺に放置された貧しい者の孤独な死をも見逃さなかった。

 

しかし、現代の孤独死は、浮浪者などではない平凡な人が、私的空間の中で1人きりの死を迎え、誰も彼(女)の不在に気づかない、人類が経験したことのない死の様相である。

 

人びとは「自立」した成人の「自己責任」の私的領域で、誰かが途方もなく孤立していたことに気づき当惑する。

 

孤独死とは、「特定の領域」に閉じ込めようとした死が、異臭とともに日常を侵犯する現代的な死の「転倒」であり、「退化」であると同時に、最終的には個人主義の破産を知らせる現代的な死の「極限」といえるだろう。