観測史上最大規模の地震だった東日本大震災
2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震、いわゆる東日本大震災。あのとき、何が起きていたのか。いま一度振り返ってみよう。
2011年3月11日14時46分、震源域が岩手県沖から茨城県沖に及ぶマグニチュード9.0の地震が発生した。観測史上国内最大規模、世界で1900年以降に発生した地震では4番目の規模だったという。宮城県北部で震度7、宮城県南部・中部、福島県中通り・浜通り、茨城県北部・南部、栃木県北部・南部で震度6強、岩手県沿岸南部・内陸北部・内陸南部,福島県会津、群馬県南部、埼玉県南部、千葉県北西部で震度6弱、そのほか東日本を中心に広範囲で震度5を記録した。
この地震で、震源の直上では海底が水平方向に約24m移動し、垂直方向に約3m隆起したことから、大規模な津波が発生。気象庁は14時49分に津波警報(大津波)を発表した。記録されている最大潮位は9.3m(福島県相馬市)、津波の遡上高は40.5m(全国津波合同調査グループによる)など、日本各地で巨大な津波が観測された。震災による死者・行方不明者は1万8400人を超え、建物被害は全壊・半壊合わせて40万戸以上と確認されている。
またもうひとつ忘れてならないのが、東京電力福島第一原子力発電所の事故である。あの日、東京電力福島第一原子力発電所の原子炉6機のうち、運転中の1号機から3号機までのすべてが自動停止。地震から約1時間後に14〜15mの津波で1〜5号機で全交流電源を喪失した。原子炉を冷却できなくなり、1〜3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。12日午後に1号機、14日午前に3号機、15日朝4号機で水素爆発と思われる爆発が発生した。事故によって、大気中に放出された放射性物質の量は、東京電力の推計でヨウ素換算値で約90京ベクレル(チェルノブイリ原子力発電所事故での放出量は520京ベクレル)で、国際原子力事象評価尺度(INES)において最悪のレベル7(深刻な事故)に分類された。
首都圏には500万人を超える「帰宅難民」がいた
ではあのとき、首都・東京では何が起きていたのだろうか。東京都総務局「東日本大震災の被害概要」によると、人的被害として立体駐車場一部崩落や天井の落下などにより、7名が死亡、117名の負傷者が出た。建物の全壊・半壊は6455戸、火災が34件発生。東京・晴海では最大1.5mの津波を記録し、液状化などの被害にも見舞われた。
そして東日本大震災によって、人口集積都市・東京ならでは帰宅困難者の問題が浮き彫りになった。内閣府による「帰宅困難者対策の実態調査」から、当時の様子を紐解いていこう。
2011年3月11日午後2時46分時点で、東京都には約352万人、神奈川県には約67万人、千葉県に約52万人、埼玉県に約33万人、茨城県南部に約10万人、計約515万人の帰宅困難者がいたといわれている(帰宅困難者=3月11日中に帰宅できなかった人)。
あの日は金曜日で、多くの人が翌日、翌々日が休みだったため、多くの企業で従業員を帰宅させる判断をした。地震発生時に会社・学校にいた人の約83%が11日中に会社・学校を離れている。一方で12日0時以降に会社・学校を離れた理由として最も多かったのは、「公共交通機関が運行を再開した情報が入ったため」(約73%)だった。
では、どのように帰路についたかというと、「徒歩」が約37%で、(自分で運転する)車が21.8%、「鉄道・地下鉄」が12.3%、自転車が11.0%であった。通常は「鉄道・地下鉄」利用である人が約43%であることを考えると、多くの人がやむをえず「徒歩」を選択したことになる。
帰宅中に必要と感じた情報で最も多かったのが「家族の安否情報」で約56%、以降「地震に関する被害状況」44.5%、「鉄道・地下鉄の運行再開時間」40.3%、「トイレが使用できる場所」27.1%と続く。また帰宅中に必要と感じたものは「携帯可能なテレビ・ラジオ等」で39.6%、「携帯電話のバッテリーまたは充電池」38.1%と拮抗しており、続いて「歩きやすい靴」33.9%、「飲料水」30.0%となった。スマートフォンがインフラとなっている現在、もし大地震が起きれば、バッテリーや充電池を求めて人々が殺到することは明白だろう。
あの日、当時の枝野幸男官房長官が「帰宅ではなく、職場など安全な場所で待機していただきたい」記者会見で呼びかけたのが17時過ぎ。鉄道会社の対応は2つにわかれた。JR東日本は終日運休を決めたのに対して、東京メトロ銀座線と都営地下鉄大江戸線(新宿〜光が丘)が11日20時40分に、西武新宿線(西武新宿〜所沢)と池袋線(池袋〜所沢)が21時55分に運転を再開したのをはじめ、京王線(新宿〜聖蹟桜ヶ丘)や井の頭線、東急線各線、小田急線も同日中に運転を再開した。それにより帰宅困難者は次第に減っていったが、JRと私鉄各社が連携できていないことでターミナル駅は混乱し、帰宅困難者があふれたと問題視された。
迫りくる首都直下地震を前に何をすべきか?
東日本大震災での経験を経て、同調査では「首都直下地震が発生し交通機関が停止した場合の帰宅行動」について尋ねている。それによると「家族の安否が確認できても、すぐに自宅に徒歩で帰宅しようとすると思う」が約29%で、「家族の安否が確認できなければ、すぐに自宅に徒歩で帰宅しようとすると思う」と合わせると、半数以上が徒歩で帰宅すると回答し、会社や学校に留まると回答した約36%を大きく上回っている。
東日本大震災の際は、多くの人が徒歩で自宅までたどり着くことができた。首都圏の多くは震度5強程度の揺れで、インフラの崩壊などは多くなかったからだろう。
しかし首都直下地震の場合はどうだろう。道中、道路が寸断されているかもしれない、崩壊した建物が道を塞いでいるかもしれない、火災に囲まれて身動きが取れなくなるリスクもある。2001年兵庫県明石市の歩道橋で発生し11人が死亡した群衆雪崩が都内各地で発生し、多くの死傷者が発生するという研究結果もある。首都圏を震源とした地震では、東日本大震災のときのようにはいかないだろう。
現在、首都直下地震は、今後30年以内に70%以内に起こるといわれている。そもそもこの地震はどのようなものなのだろうか。
いま現在、もっとも懸念されているのは、首都圏にある活断層によるM7クラスの首都直下地震である。内閣府の想定では、M7.3の都心南部直下地震(冬、夕方、風速8m/秒のケースを想定)の場合、建物の全壊・焼失は最大61万棟、死者は最大2.3万人、被害総額は約95兆円にも達するとしている。
M7クラスの地震は、[図表3]のように頻繁に起きている。危機は差し迫っているといっても過言ではないだろう。
●天明小田原地震(1782年)M7.0
●嘉永小田原地震(1853年)M6.7
●安政江戸地震(1855年)M6.9
●明治東京地震(1894年)M7.0
●茨城県南部地震(1895年)M7.2
●茨城県南部地震1921年)M7.0
●浦賀水道地震(1922年)M6.8
●丹沢地震(1924年)M7.3
●北伊豆地震(1930年)M7.3
●千葉県東方沖地震(1987年)M6.7
ちなみに大正関東地震(1923年発生、M8.2)タイプの地震は200~400年間隔で起きるとされ、元禄関東地震(1703年発生、M8.5)タイプの地震は、2000~3000年間隔で起きるとされている。ともに今後30年以内の発生率は0~2%とされ、中央防災会議も首都直下型地震とは別物として扱っている。
中央防災会議が定めた「首都直下地震対策大綱」では、発災後3日間は救助・救出活動を優先させる必要があるため、従業員等の一斉帰宅が救助・救出活動の妨げとならないよう、企業は従業員等を施設内に待機させる必要があるとしている。そのため事業所内外の安全化をすすめる一方、1人3日分を目安に、非常用物品・防災資器材等の備蓄が求められている。
個人においても、事前に家族と連絡手段や集合場所を決めておく、各通信事業者が提供する災害時の安否確認サービスを確認しておく、普段から簡易食料を携帯しておくなど、万が一に備えた準備を早急に整えておく必要があるだろう。