最低賃金は「払えるか」ではなく「払わなければならない」賃金
令和7年度の地域別最低賃金は、全国加重平均で1,121円となり、前年度から66円引き上げられました。これは、目安制度が始まって以降最高額の引き上げです。すでに最低時給は全都道府県で1,000円を超え、一部の低賃金労働者だけではなく、パート・アルバイトの多い飲食、小売、介護、製造、サービス業全体の人件費構造を揺さぶるテーマになっています。
もちろん、最低賃金は企業の業績にかかわらず、赤字企業にも適用されます。しかも最低賃金に近い労働者だけを上げれば済むとは限らず、時給差を維持するために、周辺の従業員の賃金も連動して上げざるを得ない場面があります。いわゆる「賃金の玉突き上昇」です。
そこで重要になるのが、POSレジ、自動精算機、モバイルオーダー、業務管理システム、介護記録システム、見守り機器、生産設備などを導入することで、少人数で同等の、あるいはそれ以上の成果を出せる仕組みづくりを作ること。そのための支援策が業務改善助成金です。
業務改善助成金とは何か
厚生労働省の「業務改善助成金」は、事業場内で最も低い賃金、つまり「事業場内最低賃金」を一定額以上引き上げ、生産性向上に資する設備投資等を行った場合に、その費用の一部を助成する制度です。申請は企業単位ではなく、工場、店舗、事務所などの事業場単位で行います。
たとえば飲食店なら、モバイルオーダーやセルフレジの導入による注文・会計業務の省力化、小売店ならPOSシステムの導入による在庫確認や売上集計の時間短縮など、「労働能率の増進」「生産性向上」に結びつく設備投資が対象になります。
助成金額は、設備投資等に要した費用に助成率を掛けた額と、コースごとの助成上限額を比較し、低い方で決まります。令和8年度の助成率は、引き上げ前の事業場内最低賃金が1,050円未満なら4分の5、1,050円以上なら4分の3です。上限額は、引き上げ額と引き上げる労働者数、事業場規模によって異なり、最大600万円です。
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令和8年度から何が変わるのか
令和8年度の改正における最大のポイントは、「より最低賃金対応に特化した助成金」へと制度方針が見直されたことです。令和7年度と比べると、主に次のような変更があります。
第一に、申請コースが再編されました。令和7年度までは、賃金の引き上げ高を申請する際、30円・45円・60円・90円のコースが設けられていましたが、令和8年度は50円・70円・90円と、小幅な賃上げで申請する余地が狭まり、最低でも50円以上の引き上げが必要になります。
第二に、引き上げ労働者数の区分も変わりました。令和7年度は「1人」「2~3人」「4~6人」「7人以上」「10人以上」という区分でしたが、令和8年度は「1人」「2~3人」「4~5人」「6~7人」「8人以上」「10人以上」となります。10人以上区分は特例事業者が対象です。
第三に、引き上げる対象労働者が雇用保険被保険者に限定されました。これにより、週所定労働時間が短い学生アルバイトや短時間パートなど、雇用保険に加入していない労働者のみを対象にした申請は難しくなります。従来は、雇用保険非加入者の賃上げについては業務改善助成金を検討し、雇用保険加入者についてはキャリアアップ助成金の賃金規定等改定コースを検討する、といった整理ができる場面もありました。しかし今年度からは、業務改善助成金でも引き上げ対象労働者が雇用保険被保険者のみとなるため、同一の賃金引き上げや同一経費を対象とする場合の併給調整により一層の注意が必要です。
第四に、事業場内最低賃金の基準となる労働者について、雇入れ後6カ月を経過し、申請書の提出日において雇用保険被保険者であることが必要になりました。雇入れ後6カ月という期間要件自体は令和7年度から適用されているものですが、令和8年度はこれに加えて雇用保険被保険者であることが明確な要件とされ、直近で採用した学生アルバイトなど雇用保険未加入者のみを基準に申請することはできなくなりました。
第五に、自動車の扱いが大きく変わりました。令和7年度以前は、物価高騰等要件を満たす特例事業者について、一定の乗用自動車や貨物自動車が対象になる余地がありました。しかし改正後は、特例対象経費から「特殊用途自動車を除く自動車」が外れています。少なくとも「送迎車を買えば助成対象になる」「営業車を入れ替えればよい」という発想は通用しなくなりました。実務上は、8ナンバーの特殊用途自動車などの極めて限定的な場合を除き、車両購入を前提にした計画は避けるべきです。
一方、物価高騰等要件を満たす特例事業者については、パソコン、タブレット、スマートフォン等の端末や周辺機器の新規導入が対象になる場合があります。ただし「新規導入」が前提であり、単なる買い替えや汎用事務機器の購入は対象外と判断されるリスクがあります。
令和8年度の申請で最も危ないのは「スケジュール」
令和8年度の業務改善助成金で特に注意すべきなのが、申請期間と賃金引き上げ期間です。申請期間は令和8年9月1日から、申請事業場の都道府県で適用される地域別最低賃金の発効日の前日、または令和8年11月30日のいずれか早い日までとされています。
ここで見落としやすいのは、地域別最低賃金の発効に対応して賃上げする場合、賃上げも発効日の前日までに完了しなければならないという点です。たとえば新しい最低賃金が10月1日に発効する地域であれば、9月30日までに申請し、同日までに賃金引き上げを実施する必要があります。発効日当日の10月1日に賃上げしても対象外です。
さらに、令和7年9月5日以降は、一定の場合に賃金引き上げ後の申請が認められる扱いがありましたが、令和8年度は賃金引き上げ後の申請はできないものとされています。賃金引き上げは申請より後でなければなりません。
設備投資についても、交付決定前の導入は対象外です。令和8年度のマニュアルでは、交付決定前に発生した費用や、補助事業実施期間外に発生した費用は対象外とされ、発注を含む事前の着手は認められないとされています。見積もりを取ることと、発注・契約することは違います。ここを混同すると、せっかくの設備投資が全額対象外になりかねません。
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募集開始までに企業が行うべき準備
9月になってから慌てて準備を始めると、申請期限に間に合わない可能性があります。特に令和8年度、9月1日開始から地域別最低賃金の発効日前日までの期間が短くなる地域では、準備不足が命取りになります。募集開始前から、少なくとも次の確認を進めておくべきです。
まず、事業場ごとの賃金一覧を作成します。時給者だけでなく、月給者、日給者、歩合給を含む労働者についても、最低賃金法と同じ考え方で時間額に換算します。精皆勤手当、通勤手当、家族手当、時間外・休日・深夜割増賃金など、最低賃金に算入しない賃金を除外する点にも注意が必要です。
次に、雇用保険被保険者かつ雇入れ後6カ月を経過した労働者の中で、誰が事業場内最低賃金の対象になるかを確認します。週20時間未満の短時間パートが最も低い賃金で働いていても、雇用保険被保険者でなければ、令和8年度の引き上げ対象労働者には該当しません。
そのうえで、50円、70円、90円のどのコースで申請するかを検討します。最低賃金の引き上げ幅が大きい地域では、50円コースでは足りない可能性もあります。発効後の地域別最低賃金を下回る事業場内最低賃金を引き上げる場合、発効日前日までに地域別最低賃金の改定額以上へ引き上げる必要があるためです。
設備投資については、「何を買うか」ではなく、「設備導入によってどのような業務が何分短縮され、誰の負担がどう減るのか」を説明できるようにしておくことが重要です。単なる老朽設備の同等更新、通信費削減、広告宣伝、職場の快適化、汎用事務機器、消耗品などは対象外になりやすい典型例です。
また、原則として2社以上の見積書が必要です。見積書の有効期限、納期、支払方法、発注時期を確認し、交付決定後に発注・契約・納品・支払いができるスケジュールを組む必要があります。助成金は後払いですので、先に設備代金を支払える資金繰りも確認しておかなければなりません。見積先の業者が他業者の見積書を用意することは認められておらず、審査に必要な場合には、労働局から見積先の業者へ直接、見積内容の確認が行われることがあります。また、見積書は原則として有効期限内のものを提出する必要があります。
最後に、不交付要件の確認です。申請前後の一定期間に、解雇、会社都合に近い退職勧奨、賃金引下げ、所定労働時間の短縮による月額賃金低下、労働保険料の滞納、労働関係法令違反などがみとめられると、交付対象外となる可能性があります。助成金は「書類を出せばもらえるもの」ではなく、労務管理全体の整合性が問われる制度です。
今後の最低賃金動向と、中小企業の現実的な対応
最低賃金は今後も上昇基調が続くと考えられます。令和7年度の全国加重平均は1,121円で、前年度から66円の引き上げでした。令和8年度についても、中央最低賃金審議会で目安額に向けた議論が始まっており、夏以降に目安額、各都道府県の答申、発効日が順次明らかになる流れが見込まれます。
ただし、引き上げ幅だけでなく、発効日も大きな論点です。日本商工会議所、東京商工会議所、全国商工会連合会、全国中小企業団体中央会は、2026年4月の要望で、最低賃金の発効日について「少なくとも1月以降を基本」とすることを求めています。昨年度、地域によって発効日に大きな差が生じ、給与規程の改正や賃上げ原資の確保に必要な準備期間が企業ごとに大きく異なったためです。
もっとも、発効日の正式決定を待ってから動くのでは遅すぎます。仮に発効日が1月以降になれば準備期間は延びますが、業務改善助成金の申請期間は制度上の期限に従う必要があります。賃上げ原資、価格改定、設備投資、就業規則の改定、従業員への説明は、いずれも一朝一夕には進みません。
これからの中小企業に必要なのは、「最低賃金が上がったら考える」姿勢ではなく、「最低賃金が上がる前提で、仕事の進め方を変える」姿勢です。業務改善助成金は、そのための有力な選択肢です。しかし令和8年度の制度改正により、対象者、対象経費、申請時期の判断はこれまで以上にシビアになりました。
特に、短時間アルバイト中心の店舗、直近採用者が多い事業場、一般の送迎車や営業車の導入を想定していた事業者、最低賃金発効日前後に賃金改定を行う予定の企業は、早めに制度適合性を確認すべきです。9月の募集開始を待つのではなく、今のうちから「対象者の確認」「賃上げ額の試算」「設備投資計画」「見積取得」「就業規則改定案」まで準備しておくことが、採択以前に申請の入口に立つための条件になります。
最低賃金の引き上げは、企業にとって負担であることは間違いありません。しかし、賃上げを単なるコスト増で終わらせるか、省力化・効率化のきっかけにできるかで、その後の経営体質は大きく変わります。業務改善助成金は、まさにその分岐点にある制度です。
岡 佳伸
特定社会保険労務士
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