※写真はイメージです/PIXTA
元役員「東京で仕事を取ってきます」
高橋浩一さん(58歳・仮名)は、東京都内の大手企業に30年以上勤務していました。営業部門を経て、50代前半で事業部長、56歳で取締役に就任。年収は約1,600万円でした。
58歳で任期満了を迎えた際、再任の道もありました。しかし、役員としての処遇が変わることから退任を決意。長年の勤務に対する役員退職慰労金として3,500万円を受け取りました。
預貯金を含む金融資産は約1,600万円。役員退職慰労金を合わせると、貯蓄は5,000万円を超えます。妻の美智子さん(56歳・仮名)はパート勤務で年収120万円。夫婦の生活費は月32万円ほどでした。
「65歳まで7年。年収500万~600万円で働けば、老後資金も十分」
高橋さんはそう考えていました。そんなとき、知人を通じて北陸地方の部品メーカーから声がかかります。従業員約80人の中小企業。社長からは「大企業での経験を生かしてほしい」と言われ、提示された年収は580万円。
高橋さんは東京の自宅を離れるつもりはありませんでした。
「東京にいながら、大手企業との取引を増やします」
高橋さんは、自身の人脈を使った営業や経営支援を想定していました。
ところが、入社してすぐに認識の違いが明らかになります。最初に頼まれたのは、取引先への訪問でした。製品に不具合があり、社長と一緒に説明に行くというのです。
「営業担当が対応すればいいのでは?」
高橋さんが尋ねると、社長は、「人が足りないんです。行ける人が行きます」と答えました。大企業では、営業、品質管理、経営企画など、仕事が細かく分かれています。問題が起きれば担当部署が調査し、資料をまとめ、上司が判断する。それが高橋さんにとって当たり前でした。
しかし、この会社では違います。営業担当が休めば部長が客先に行く。品質問題が起きれば社長も工場に入る。納期トラブルなら、経営企画の高橋さんにも電話がかかってくる――。
中小企業庁『2025年版 中小企業白書』でも、中小企業では人材不足が続き、人材確保が重要な経営課題となっています。限られた人員で事業を回すため、一人が複数の役割を担うことも珍しくありません。
高橋さんが営業戦略を30ページの資料にまとめたときも、社長の反応は予想外でした。
「それで、来月はいくら売れるんですか?」
「大手企業との関係を作るには、半年から1年は必要です」
「半年後も大事です。でも、今月の売上も必要なんです」
高橋さんは言葉を失いました。大企業では、中長期の戦略を立て、各部署が実行する。しかし、この会社では、戦略を考える人間も自ら顧客に会い、売上を作る必要がありました。
さらに高橋さんが「私は経営に関わるために採用されたと思っていました」と話すと、社長はこう返しました。
「うちには、経営だけをする人を置く余裕がありません」
その言葉は、高橋さんのプライドを大きく傷つけました。