「定年後は家族との時間を大切にしたい」と意気込んだものの、長年の仕事の癖や無意識の言動から家庭内で孤立してしまう元会社員は少なくありません。ある男性の事例を通じ、定年後の家族との摩擦と、良好な家族関係を築くための適切な関わり方について考えていきます。
「お父さんがいると家の雰囲気が悪くなる」退職金3,500万円・60歳元エリート部長、定年後に娘から突きつけられた「容赦ない一言」 ※写真はイメージです/PIXTA

「母さん、ご飯、おかわり」に、娘の痛烈な一言

変化がはっきり表れ始めたのは、退職から半年ほどたった頃でした。毎日家にいるようになった佐藤さんは、「家族の役に立ちたい」という気持ちから、以前より家のことによく目が向くようになりました。しかし、その関わり方は、長年身についた仕事の癖そのものでした。妻が夕食の準備をしていると、

 

「味噌汁はもう少し後で火を止めたほうがいいんじゃないか」

 

スーパーから帰れば、

 

「特売だからって買いすぎじゃないか。献立を決めてから買えば効率がいいだろう」

 

本人は助言のつもりでした。会社では部下から「頼りになる部長」と言われてきました。改善点を指摘し、効率を上げることが仕事だったからです。その感覚が、家庭でも抜けませんでした。

 

一方、妻は何も言い返しません。ただ、「そうね」とだけ答え、黙って家事を続けます。その様子を、娘の美咲さんは毎日見ていました。さらに佐藤さんは、在宅勤務の日の娘にも何気なく声をかけます。

 

「昼は何を食べるんだ」「その資料、会社で使うのか」「ちょっとコーヒーを飲まないか」――。

 

悪気はありません。しかし、オンライン会議の合間や集中して仕事をしている時間にも何度も話しかけられ、娘は次第に自室のドアを閉めるようになりました。

 

ある日の夕食でした。佐藤さんは空になった茶碗を妻へ差し出し、「母さん、ご飯、おかわり」と自然に言いました。
妻は立ち上がろうとしましたが、その前に娘が口を開きます。

 

「お父さん、自分でよそえばいいじゃない」

「そういうところ。お父さんは、会社を辞めても、いまだに部長気取り。お母さんに指示を出して、私にも仕事みたいに話しかけて……お父さんがいると、家の雰囲気が悪くなる」

 

佐藤さんは言葉を失いました。怒鳴ったこともありません。暴力を振るったこともありません。家族のために働き、家族のためを思って口を出してきたつもりでした。それなのに、自分の存在そのものが、家族を緊張させていたのです。

 

そのとき、妻が静かに口を開きました。

 

「少しずつ、あなたも変わってくれたらいいから」

 

定年退職後に家庭に戻った夫が、職場の管理的態度を持ち込み孤立する背景には、家族観の変化と役割分担のギャップがあります。国立社会保障・人口問題研究所『第16回出生動向基本調査』では、既婚女性の65.0%が「男性にとって家族との時間は仕事の成功より重要」と回答しています。また『第7回全国家庭動向調査』では、妻の80%台(60代女性でも86.8%)が「夫も家事を平等に分担すべき」と賛成していますが、夫が主体的に動くのではなく、会社のように家事を「指示・管理」する側に回ることで摩擦が生じます。

 

翌日から佐藤さんは生活を変え始めました。市のシルバー人材センターに登録し、週3日、公園管理の仕事を始めます。報酬は月7万円ほどですが、決まった時間に家を出る生活が戻りました。

 

それと同時に、家事をきちんと担当分けしてもらいました。佐藤さんの担当は、朝食の準備とゴミ出し、週2回の夕食づくりです。最初は慣れず、味付けを失敗する日もありました。それでも家族は文句を言いません。以前よりも家の中も明るくなった気がする、と言います。