食堂で聞こえた入居者の会話
最初の1ヵ月ほどは、内藤さんは新しい生活を楽しんでいました。毎日決まった時間に食事が出る。掃除の負担も減る。妻の体調管理にも安心感がある。ところが、次第に気になることが増えていきました。きっかけは、食堂で聞いた会話でした。
「あの方、前は会社を経営していたみたいですよ」
「息子さんとは相続でもめているらしいです」
「昔から女性関係が派手だったって聞きましたよ」
入居者同士の会話には、それぞれの過去や家族事情に関する話題が出ることがありました。もちろん、すべてが事実とは限りません。しかし、内藤さんには、その空気自体が負担になっていきました。
「ここでは初対面の人の家庭事情や財産の話が、普通の会話のように出てくる――それが苦手でした」
内藤さんは40年以上、教師として働いてきました。勤務先では、年齢や立場の異なる人たちと関わる毎日でした。ただ、それは教師という役割があったから成立していた関係でもありました。
この老人ホームにいる人たちには、「元社長」「元役員」「資産家の家族」など、“普通”の人たちではない人が多く入居しています。だからでしょうか、入居者の経歴が話題になる場面が多くあったのです。2人も、単に経歴で話が終わるなら気になることはなかったでしょう。しかし話題はさらに先へと進みます。
「あぁ、元経営者。だからちょっと高圧的なのね」
「元会社役員!? 結局、雇われの身だったんだな」
多くの場合、経歴を枕詞に、相手を揶揄したり、蔑んだり――いかにマウントをとるかという展開が多く、聞いているだけでストレスになったといいます。
内藤さん夫婦は、次第に食堂へ行く時間をずらすようになりました。イベントの誘いも断ることが増えました。部屋で過ごす時間が長くなったといいます。そして入居から約120日。内藤さん夫婦は、転居を決めました。
「お金の問題ではありませんでした。払えるかどうかではなく、ここで10年、20年暮らしていけるかを考えました」
退去には費用も発生しました。入居時の費用がすべて戻るわけではなく、引っ越し費用や新しい施設への契約費用も必要でした。経済的には合理的な判断とは言えなかったかもしれません。しかし、内藤さん夫婦にとって問題だったのは、毎日を快適に過ごせるかどうか。
「高いお金を払ったのだから、一生ここにいないといけない……勝手に思い込んでいたんですが、残された時間も有限なのに、今さら我慢する必要があるだろうか――そう考えて、転居することに決めたんです」
転居先に選んだのは、以前の施設より規模の小さい老人ホームでした。豪華な設備はありません。入居者の数も少なく、食堂で自然に会話が生まれる環境でした。
「朝、隣の席の人と天気の話をする。それだけですが、そんな雰囲気が私たちには合っているようです」