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自分を追い詰めた「理想の暮らし」の正体
IT企業で働く松本健一さん(40歳・仮名)は、月収45万円、賞与を含め年収は700万円を超えます。 独身の松本さんが「ていねいな暮らし」にのめり込んだのは、40歳を目前にしたある夜のことでした。
きっかけは、仕事と自宅を往復するだけの代わり映えしない毎日に抱いた、ふとした虚しさでした。 深夜に帰宅し、SNSを眺めていると、手間暇をかけて生活を楽しむ人々の姿が目に飛び込んできました。 「仕事だけの人生で終わりたくない。私生活を充実させたい」という思いが募り、まず道具を揃えることから始めました。
1客数万円する作家ものの器、1台10万円を超える手動のコーヒーミル、三重県産の高級な土鍋……。 初期投資には数十万円を投じました。 朝5時に起床して豆を挽き、土鍋で米を炊き、冬には大豆から味噌を手作りする。 高価な道具に囲まれ、自分の手で生活を整える行為に格別な充足感を覚えたといいます。
「一つひとつの行為に向き合う感じが、本当に豊かな時間で……これまでの単調な生活に、鮮やかな色がついた感覚です」
一方で、ていねいな暮らしは驚くほどコストも手間もかかります。 無添加の食材やこだわりの調味料を揃えると、以前の食費の2倍以上になったといいます。 さらに、仕事が忙しくなるにつれ、それらの道具を使いこなすことが、松本さん自身を追い詰める“義務”に変わっていきました。
ある夜、帰宅は22時過ぎ。 松本さんは翌朝の土鍋ごはんのために米を研ぎ、浸水させながら、溜まった洗濯物を手洗いしていました。 こだわりが高じ、デリケートな衣類は洗濯機を使わないと決めていたからです。 作業が終わったのは深夜1時。睡眠時間は4時間を切っていました。
「たとえ忙しくても食事に手を抜くことは、高い道具を揃えた自分への敗北だと思い込んでいました。以前より生活費は上がり、自由な時間は減る……。ストレスを感じることもあり、本末転倒でした」
転機は、半年前に訪れました。 過労と睡眠不足で倒れ、1週間の入院を余儀なくされた際、看護師に渡された市販のゼリー飲料を口にしたときのことです。
「冷たくて、甘くて、効率的に体に入ってくる。そのとき、自分が何のためにあんなにお金と時間をかけてきたのか、急に冷静になりました。退院後、土鍋を戸棚の奥にしまい、数年ぶりに炊飯器を買いました。おかずはスーパーで総菜を買ってきました。すると、何もしなくていい時間が3時間も生まれたんです」
現在は、平日は家電や市販品を頼り、時間に余裕のある週末だけ、お気に入りのミルでコーヒーを淹れているといいます。
「すべてを完璧にやろうとせず、自分が心地よいと思える範囲で向き合う。それが私にとって心地のいい暮らしなんです」