(※写真はイメージです/PIXTA)
「もう、届かないんだよ」かつて頼もしかった父の弱音
「実家の玄関を開けた瞬間、なんとなく薄暗いなと感じました。でも、最初は『節電かな』くらいにしか思わなかったんです」
都内のメーカーに勤務する佐藤健一さん(52歳・仮名)。昨年の年末、1年ぶりに地方の実家へ帰省したときのことでした。健一さんの父、茂さん(82歳・仮名)は、5年前に妻(健一さんの母)を亡くしてからひとり暮らしを続けています。若い頃から手先が器用で、日曜大工はお手のもの。実家の修繕や庭木の手入れなど、なんでも自分でこなす頼もしい父親だったそうです。
しかし、久しぶりの実家は、どこか様子が違っていたとか。夜になり、台所に行こうと廊下に出たところ、スイッチを押しても電気がつかないことに気づきます。暗闇の向こうからやってきたのは茂さんでした。
「暗闇から出てくるからびっくりして。『こんな暗闇でなにしているんだよ!』と大声を出してしまいました。そこで廊下の電球が切れていることに気づいたんです。父は『ああ、そうなんだ。切れてから、もうだいぶ経つかな』と、当たり前のように言っていました」
予備の電球くらいあるだろうと、健一さんが交換しようとすると、背後から父の小さな声が聞こえました。
「脚立に乗るのが怖くてな。もう、届かないんだよ」
その言葉に、健一さんは言葉を失いました。かつては屋根に上って瓦のズレを直していた父が、たかが天井の電球交換を「怖い」と言って諦めている。思っていた以上に、父の老いが進行していることを、このとき初めて知ったのです。
すると、家の中の気になるところが次々と目に入ってきました。居間の隅には読み終わった新聞紙が束ねられずに平積みされ、電気カーペットのコードは動線を横切るように伸びています。廊下のほか、電球が切れたままのところはほかにも……。
健一さんが脚立を持ってくると、茂さんは「すまないな」と椅子から立ち上がろうとしましたが、その動きも以前よりずっと緩慢になっていました。
新しい電球に取り替え、スイッチを入れると、パッと明るい光が廊下を照らしました。「ああ、電気がついたのは半年ぶりだ。やっぱり明るいのはいいな。ありがとう」眩しそうに目を細める父の顔には、安堵の色と同時に、自分ではもうそれができないのだという、諦めにも似た寂しさが浮かんでいるように見えたといいます。