贅沢を望まず「普通の暮らし」を願っていた夫婦。十分な退職金と年金がありながら、なぜ1,000万円もの損失が生まれたのでしょうか。老後資金の運用で陥りがちな、「ある取引」の仕組みと、見落としやすいリスクについて詳しく解説します。
贅沢なんてしてない…〈退職金1,800万円〉〈年金月25万円〉の65歳夫婦。「普通の暮らし」を心がけたが、気づけば損失「10,000,000円」のワケ (※写真はイメージです/PIXTA)

退職金1,800万円と月25万円の年金。「普通の暮らし」のはずが…

佐藤健一さん(65歳・仮名)は、60歳で大手メーカーを定年退職しました。退職金は約1,800万円。堅実に働いてきた健一さんと妻・幸子さん(65歳・仮名)は、贅沢を望んでいたわけではありません。

 

「退職金にはできるだけ手を付けず、普通の暮らしができればいい」

 

そう考えていたといいます。 現在、佐藤さん夫婦2人の年金額は月約25万円。総務省統計局『家計調査 家計収支編2024年平均』によると、65歳以上の夫婦のみの無職世帯の場合、税金や保険料などを引いた可処分所得は月22万円ほど。対し、支出は25万円ほど。毎月3万~4万円の赤字が生じているのが平均的な高齢者夫婦の姿です。

 

佐藤さん夫婦は、まさに普通の高齢者夫婦。年金だけで「普通の暮らし」を維持していくには、やや心許ない状況であることは、60歳で退職した時点でわかっていたといいます。「将来を考えると、退職金を切り崩す生活は避けたかった。少しでも資産を有効活用できないかと考えたんです」と健一さんは当時を振り返ります。

 

銀行の定期預金金利は期待できず、NISAや投資信託はすでに少額で始めていました。そんな折、60歳で退職して間もなく、取引のある証券会社の担当者から勧められたのが「株券賃借取引(貸株サービス)」でした。

 

健一さんは、退職金の一部をどう運用するか証券会社に相談した際、「これからの時代、成長が期待できる分野だ」と強く勧められた国内のハイテク関連企業の株式を1,000万円分ほど保有していました。「その株を弊社に貸し出していただけませんか。ただ保有しているだけより、貸借料(金利)が受け取れてお得ですよ」。担当者のその言葉に、健一さんは魅力を感じました。「使っていない株で金利がもらえるなら、やらない手はない」と考え、契約を結びました。

 

当初は、毎月数千円の貸借料が振り込まれ、「年金の足しになる」と喜んでいたといいます。

 

状況が変わったのは、退職から2年ほど経ったころ。金融引き締め局面で低金利環境を背景に、健一さんの保有株の評価額は2,500万円まで上昇。「これで老後の資金も十分だ。欲張らず、一度利益を確定しよう」と、健一さんは売却を決意し、証券会社の取引画面を開きました。しかし、売却ボタンを押そうとした健一さんは、ある事実に気づきます。「貸出中のため、売却できない――」。貸株サービスを利用していると、即日売却ができないのです。

 

「慌ててコールセンターに電話し、返却手続きを取りました。しかし、『売却可能になるのは4営業日後です』と言われて……」

 

健一さんが返却手続きをしたその数日間で市場の雰囲気は一変します。海外で発表された経済指標が予想を大幅に上回り、市場では「急激な金利引き上げが前倒しされる」との観測が一気に強まりました。金利上昇に弱いとされるハイテク関連株は真っ先に売りの対象となり、市場全体の下落率を大きく超えて暴落。健一さんの株がようやく売却可能になった頃には、評価額は1,500万円まで下落してしまっていました。

 

「あの時すぐに売れていれば、1,000万円の利益が得られたはずだった。金利に目がくらみ、売りたい時に売れないというリスクをまったく理解していなかった……」

 

得られたはずの利益を逃した「機会損失」。健一さんは今、資産運用について改めて慎重になっているといいます。