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一昔前より「指示対象が広く」なった若者言葉
日本のそうなりやすい環境で育つ子どもたちが、論理性を身につけにくいのは当然でしょう。その表出の一証が「うざい、キモイ、やばい、エモい、それな」などの若者ことばの多用かもしれません。若者ことばは言語学的には関心の対象であり、それが言語の通時変化をもたらす原動力なので、それ自体に良いも悪いもありません。今では死語となりましたが、昭和・平成の時代にも「ナウい、チョベリバ、オヨヨ、アッシー、メッシー」など若者ことばはありました。
ただ、若者ことば今昔を比較してみると、昔の「指示対象の狭さ」に対して今どきは随分「指示対象が広く」なっている印象があります。「やばい」には「うざい、キモい、エモい、つんだ」なども含意して使用されます。言語学的にはこれが語彙化の過程での揺らぎなのか、どうか分かりませんが、これだけ多様な含意がある語はめずらしいでしょう。
さて、このようにハイコンテキスト文化圏である日本においては、とある事象間の因果関係を明示する必要はありません。「ああ、それな」で終わってしまいます。何が「それな」なのかさっぱり分からなくても、なんとなく納得した気分になることが要求されます。「なんで」「どうして」と幼児のように根掘り葉掘り因果関係を聞くのは、「うざい・キモイ・ヤバい」です。
思考には夢のようにとりとめもない拡散的な思考もありますが、一般に「思考」には「これこれだからこうなる」という論理性が必要です。ところが、幼児期はともかく、成長とともに周囲の「空気を読むこと」に翻弄されていくうちに、「なんとなく分かった気になって」いて「実はよく分からない」状態に慣らされてしまっているのではないでしょうか。そして、その結果として日本人には(程度の差はありますが)論理的思考が育ちにくくなってしまったと考えられるのです。
さらには、「先生の言うことは黙って聞く。先生や教科書が間違えているはずがないので、疑問に思っても指摘はしない」ことは、暗黙の了解なので教科書を読んで「これ変じゃない?」と突っ込むことなど思い浮かびもしない。そして、先生や教科書の言うことをその通りに覚えていって、その技術に長けた人から高い偏差値、あるいは成績が振り当てられる。そんな状況に、知らず知らずのうちに慣らされてしまっているのかもしれません。
しかし、そんな私たちでも、幼児の頃は疑問を持っていたのです。そして、「なんで」「どうして」と素直に発していたのです。子どもにだけは、しっかりとした論理性が身につくように、親は日々心がけなくてはいけません。
船津 洋
株式会社児童英語研究所
代表取締役所長