「ミニマリズム」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。ミニマリズムとは、必要最低限の物だけに囲まれ、人間関係も絞ることで、ストレスから解放されることを目指す生き方とされています。服や家具など持ち物を極端に減らし、生活環境をシンプルにすることを理想とし、SNSやブログなどでそのライフスタイルや考え方を発信する人が多くいます。本記事ではAさんの事例とともに、ミニマリストの想定外について、長岡FP事務所代表の長岡理知氏が解説します。※相談者の了承を得て、記事化。個人の特定を防ぐため、相談内容は一部脚色しています。
いつでも夜逃げできるようにしているの?(笑)…冷蔵庫・洗濯機を処分、同じ服が三着とマットレスのみの部屋。親も恋人も“切り捨てた”月収40万円の34歳会社員が「ミニマリスト」を卒業したワケ (※画像はイメージです/PIXTA)

父親の形見

兄二人も交えた相続分割の話し合いは簡単に終わりました。Aさんには現金で900万円が分割されるとのこと。思いがけない相続に驚きましたが、了承し、終了。その夜は実家に泊まることにしたAさん。母親から、父親の形見の腕時計をもらいました。

 

それは父親がずっと身に着けていたものでした。父親が教員として働きはじめたときに、無理をして買ったスイス製の高級時計です。子供のころ、父親がいつも腕に巻いていたのを覚えています。手に取ると、子供のころの記憶が蘇ってきます。父親と手をつなぎ、公園に遊びに行ったときのこと。目の高さにはその時計がありました。中学のころ、家族で郡上八幡のお祭りに行ったときも、その時計をしていました。

 

もう50年以上も前の時計で、針は動いていません。東京に戻ると、しばらく部屋でそれを眺めていました。ネットで時計をオーバーホールしてくれる業者を探し、片っ端から店に行ってみましたが、「ビンテージというよりアンティークで、完全な修理は無理です」と断られる始末。ある業者だけが引き受けてくれるとのことでしたが、費用は50万円。「もう毎日使うのはやめてください。ちゃんと動きますが、これはあくまでも観賞用です」と、職人にいわれ驚きました。50万円もかけて実用性ゼロなのか、と。

 

綺麗になって戻ってきた時計を部屋に飾ると、また子供のころの記憶が蘇ってきます。「嫌な思いもしたけれど、親父とは楽しい思い出もあったな」そう思えるようになった自分がいました。そして、なんの実用性もない腕時計を毎日眺め、ミニマリストを気取っていたのはいったいなんだったんだろうと考えるようになったのです。

 

父親に向き合えるようになったのは、父親が亡くなったからなのかもしれません。Aさんの気持ちのなかで大きな転機を迎えたのは間違いありません。

本当に欲しかったもの

本当に欲しかったものはなんだったのか。

 

Aさんは数日思いを巡らしていました。ミニマリストというかっこいい生き方ではなかったのは確かです。自室を「夜逃げする人の部屋」にすることではありませんでした。FIREを目指して投資ごっこをすることでもない……。

 

欲しかったのは、自分に対する許しだったのかもしれません。そして両親に対する許しも。生い立ちの中で積みあがってきた怒りや不安といった感情を、一つひとつ解放させて、許していく自分を求めていたのだろう。そんな結論に至りました。

 

Aさんはいま、療養をしながら定期的に実家に帰省しています。母親とのコミュニケーションも少しずつ取り戻している最中です。母親を病院に連れていくために、実家で運転の練習もしています。

 

高校のときの友達にも連絡をとり、無礼をしたことを謝りました。友達は「そんなこと覚えてない」といってくれました。恋人はもう戻ることはないけれど、チャンスがあるなら誰かと付き合いたいし、結婚も考えていきたいと思っています。SNSのコミュニティで知り合った人たちとオフ会を開いて、最近友達が数人できました。趣味も増え、お金を使うことも増えました。

 

「ちょっと前の自分だったら、『合理的でない』だなんてかっこつけていたけれど、いまは人のつながりや、思い出が詰まった物の中で生きられるようになったと思う」Aさんはいいます。

 

度が過ぎた思想に走りそうになったとき、一度自分が抱えている不安に向き合って和解することを考えてみるのはいかがでしょうか。

 

 

長岡理知

長岡FP事務所

代表