(※写真はイメージです/PIXTA)
「母さんのために」……それがすべての始まりだった
「愚かでした……」
絞り出すような声で呟くのは、斉藤大輔さん(仮名・50歳)です。事の発端は、大輔さんの父が70歳で他界した8年前にさかのぼります。一人っ子だった大輔さんは、悲しみに暮れる母・幸子さん(仮名・現78歳)を支え、相続手続きを進めることになりました。
遺産は、築40年の実家と、わずかな預貯金。幸子さんの収入は、月12万円の年金のみです。実家で母1人が暮らすのは不安ではありますが、一番現実的だと考えました。相続の話し合いになった際、大輔さんは迷わずこう提案しました。
「この家は、母さんが相続するのが一番いいよ。住み慣れた家だし、その方が安心だろう」
幸子さんも「お父さんと暮らした家だからねぇ……」と、その提案を受け入れました。最良の選択をして「これで安心だ」と、大輔さんも胸をなでおろしたといいます。
しかし、その平穏は長くは続きませんでした。数年前から、幸子さんの言動に少しずつ変化が現れ始めたのです。同じことを何度も尋ねる、物の置き場所を忘れる……。そして2年前、幸子さんは、アルツハイマー型認知症と診断されました。症状は日に日に進行し、一人暮らしは限界に達していました。火の不始末や、徘徊の兆候も見られるようになり、大輔さんは決断を迫られました。
「母を施設に入れよう。そのほうが、母にとっても安全だ」
いくつかの施設を見学し、幸子さんが穏やかに過ごせそうな場所を見つけました。しかし、問題は費用です。入居一時金で数百万円、月々の利用料も20万円を超えます。幸子さんの年金、月12万円と貯蓄では到底まかなえる金額ではありませんでした。
「実家を売るしかない」
実家の売却益を施設費用に充てることを思いつきました。それが最も合理的で、唯一の解決策に思えたのです。しかし、不動産会社に相談した大輔さんは、耳を疑う言葉を告げられました。
「お母様名義の不動産を売却するには、お母様ご本人の意思確認が必要です。認知症が進行している場合、契約は難しいかと……」
「はっ? どういうことですか? 私が長男で、母の介護費用に充てるんですよ? なぜ売れないんですか。おかしいじゃないか」
現実は非情でした。不動産の所有者である幸子さんに、売買契約を結ぶための「意思能力」がない以上、たとえ息子であっても、勝手に家を売ることはできません。それが日本の法律でした。
家庭裁判所に申し立て、母の財産を管理する後見人を選任してもらう「成年後見制度」という道もありました。しかし、手続きは煩雑で時間もかかり、必ずしも「実家の売却」という望む結果が得られるとは限りません。後見人には弁護士などの専門家が就くことも多く、その場合は報酬も発生します。
「何なんだ、これは……」
時間だけが、無情に過ぎていきます。幸子さんの症状は、待ってはくれません。大輔さんは、自身の貯蓄を取り崩し、なんとか費用を捻出して、幸子さんを施設に入居させることにしました。しかし、それは根本的な解決にはなりませんでした。毎年の固定資産税、伸び放題の庭の草木……近隣から苦情が来ることもありました。売るに売れず、かといって放置もできない実家は、今や「負の遺産」と化していたのです。