(※写真はイメージです/PIXTA)
35年連れ添った妻の本音とすれ違い
「俺は自由だ!」
定年を迎えれば、もう、満員電車に揺られることも、気難しい取引先に頭を下げることもありません。これからは、自分のためだけに時間を使うことができます。長年の勤めから解放される安堵感と、未来への期待が入り混じった高揚感を胸に、正雄さんは自宅への道を急ぎます。
自宅では妻の明子さん(仮名・60歳)が夕食の準備をしていました。「あれ、今日はずいぶんと早いのね」と正雄さんの早い帰りに焦っているよう。「作り始めたばかりだから、あと30分くらいかかるけど」。その口調からは、調子を狂わされたことへの苛立ちが感じられます。
「今は話すタイミングではないな」と言葉を飲み込み、夕食ができあがるのを待ちます。そして30分後、夕食の準備ができて、小さな声で「いただきます」と言うのに続いて、正雄さんは切り出します。
「明子に話があるんだけど、俺、再雇用は断って、完全にリタイアすることにしたよ。サラリーマンでいられるのも、あと4ヵ月」
「おつかれさま。これからゆっくりできるわね」などという労いの言葉を期待していた正雄さん。一方、「えっ……?」という言葉とともに明子さんの顔から、ふっと笑みが消えました。
「会社、辞めるの? もう行かなくなるということ?」
「ああ、そうだ。これからは夫婦でのんびり旅行にでも行けるぞ。お金の心配はいらない」
自信満々に続ける正雄さんに、明子さんは矢継ぎ早に言葉を重ねました。
「じゃあ……これからずっと、家にいるということ? 毎日?」
その問いに、正雄さんは一瞬、言葉を失いました。どういう意味なのでしょうか。夫婦なのだから、家にいるのは当たり前ではないか。正雄さんが戸惑っていると、明子さんは俯き、絞り出すような声で、こうつぶやいたのでした。
「……堪えられない」
残酷すぎる一言でした。頭を鈍器で殴られたような衝撃に、正雄さんは呆然とします。何が起きたのか、理解が追いつきません。「おつかれさま」という言葉はどこへ? 目の前にいる明子さん、まるで知らない他人のようでした。