脳が快感を覚えるとき

私は学生時代、数学の問題を解くのが好きでした。かくべつ数学が好きだったわけではなく、また、その才能があったわけでもありません。しかし、論理をねばり強くつみかさねていき、こんがらかった糸をほぐし、そのなかからたったひとつの正解をつかみだす、あのスリリングなおもしろさに強く魅了されていたのです。


たしか幾何学の問題でしたか、何時間考えても、解法の糸口すら見つからない難問にぶつかったことがありました。一度とりかかったら、ついつい熱中してやめられなくなるのが私の生来の性癖です。ついに一日では終わらず、二日、三日とぶっつづけでその問題にとりくむことになってしまいました。わからないまま放り出すのは、どうにも気持ち悪くて、イヤだったのです。


三度の食事もそこそこに、机の前に座りっぱなしで、その問題に取り組みました。風呂にはいっても、トイレに行っても、頭の中はその問題のことだけでした。そして、それは三日目に訪れました。それも徹夜で考えつづけたあとの明け方でした。


机の上に朝日がさしてくると同時に、インスピレーションがひらめき、それまで手こずってきた問題の解法が、パッと頭に浮かんだのです。どんより曇っていた頭のなかが、一気にスーッと晴れ渡っていくような快感でした。このときの脳のなかをすずしい風が吹き抜けていくかのような爽快感は、それから四十年たったいまでも忘れられません。


ひとくちに「快感」といっても、現代社会では、すぐにセックスの快感、食欲を満たす快感、睡眠をむさぼる快感と、動物としての本能を充足させる快感ばかりが連想されがちです。しかし、私たちの脳が快感を得るのは、セックスや食事のときだけではありません。私たち人間の脳は、じつにさまざまな多岐にわたる、高度なレベルの快感を知っており、その実現を求めて飽くことなく活動しているのです。


ちょっと考えただけでも、私たちの周囲には、じつに多くの快感があることに思い当たるはずです。たとえば、がらくた市などで、興味をひかれる骨董品を見つけ、それを手に入れたときの感情はどうでしょう。そこには、新しいもの、未知なるものを発見したときに感じる喜びがあります。これは好奇心が満たされた快感です。


あるいは、会社で大きな仕事をなしとげて、上司や同僚からほめられたときはどうでしょう。他者から賛美されると、人間、だれしも快感を覚えるはずです。カラオケでうまく歌えたときも快感なら、仲間たちから拍手を受けるのも快感です。子どもが親にホメられると、以後、やる気を出すようになるのも、この他者から評価される快感あってのことです。


一人で仕事や勉強をしている場合でも、仕事や勉強がスケジュールどおりにスイスイと進んだときは、とても気持ちがいいでしょう。あるいは先ほどの私の体験のように、長いあいだ悩んでいた困難な問題がすっぱりと解決したときも、素晴らしい快感があります。ふだん顔を合わせている異性に対して、ある日突然、胸がときめくようになりました。


異性にたいしてそこはかとない愛を感じる。これまた素晴らしい快感です。いくつになっても、異性に恋愛感情を抱くということは素晴らしいことです。あるいは深く信頼している友人が、思いがけず訪れてきたときなども、これと似た快感があります。


快感の種類はまだまだ数えきれません。かつて子ども時代に見たことのあるような、懐かしい風景にめぐりあったときはどうでしょう。あるいは、偶然、展覧会などで見た絵画の風景に、底知れず懐かしいものを感じたときはどうでしょう。そういうとき、私たちは思わず涙ぐむことさえあります。そこには郷愁の快感があるからです。


このように私たちが、爽快になったり、陶然としたり、郷愁を感じたりと、快感に浸ることのできる状況はじつにさまざまですが、こうした高度な、きわめて多岐にわたるさまざまな快感は、私たち人間だけに許されたものです。


それらの快感は、私たち人間だけが持つ、高度に発達した脳の活動によって生み出されるものだからです。動物の快感は、本能の充足によってのみ起こります。必要な食べ物があり、子孫を増やすための相手がいて、仲間と群れる喜び。食欲、性欲、集団欲のこの三つの本能の欲求が満たされるとき、つまり「食うて、産んで、群れて」快感するのです。


もちろん、人間もこうした欲求が満たされると快感を味わいますが、それに加えて、私たち人間は、奥深い精神世界をもっており、その精神世界が、快感をきわめて多種多様、かつ豊かなものに育てあげているのです。