「円熟」とは、ほんとうの楽しさを感じられること

「円熟」という言葉の意味を調べてみると、「十分に熟達して豊かな内容を持つに至ること」とあります。あるいは、「人格・知識・技術などが十分に熟達すること」とあります。社会人にたとえると、「人生経験を十分に積み、若い人の前でなにやら一家言ありそうな、自信たっぷりの中年」といった感じでしょうか。


しかし、この本で提唱する円熟は、そうした過去の積み重ねにもたれかかった中年や老年のイメージとは少々ニュアンスが異なります。私がいう円熟とは、「自分で生きる楽しみを発見し、それにチャレンジし、かつ、それを十二分に楽しめるようになること。人間としての総合力が高まること」ということになります。つまり、過去の生きざまよりも、いまからの生き方が円熟のポイントになってきます。


ですから、円熟イコール高齢化というわけでもないのです。円熟した人間とは、ほんとうの楽しさ、おもしろさを感じられるようになった人間、具体的には、脳が五感のすべてで「快楽」を感じられるようになった人間のことです。


人間の脳は、鍛え方しだいによって、むしろ年をかさねるにしたがって、じっくり円熟させていくことができます。逆にいえば、人生の後半は、自分の脳をいかに円熟させるか、そのことにかかっているとさえいえるほどです。


よく見かける風景ですが、少々たそがれた中年のなかには、「俺もまだまだ若いんだ」とばかりに、若者のあいだで流行しているスポーツやファッションに飛びつく人がいました。しかし「円熟推し」の私からみれば、こうした一見積極的な行動は、しょせんは〝年寄りの冷や水〟と考えます。早い話が、見た目の若さに執着する価値観ということであり、そんなことは「未熟老人」のすることです。


これからの社会では、円熟した人間は「若い者に負けてたまるか」ではなく、すべからく「若い者には(この楽しみが)わからないだろうな」で生きる生き物なのです。実際に、若いときには気がつかなかった快感を発見し、しかも深い快感を味わえるようになるのです。ですから、「円熟社会」では、オジン、オバンといって軽んじられるのではなく、オジン、オバンであることが、まだ円熟の愉楽を知らぬ若い世代の人たちから一種、羨望の念をもってむかえられる生き方をすることが、それこそ「生きがい」となるのです。いわば私たち高齢者の「円熟」した社会になるのです。


仕事をリタイアすると、毎日の生活に充足感がなく、何か虚しい、という声をよく聞きます。たしかに数十年間過ごした仕事人生が終われば、最初の何年かは自由になった時間を満喫しますが、そのうちに自由な時間を持て余し、何をしたらいいかわからない、ということになります。


しかし、円熟をめざす脳の持ち主は、いつまでもそうした状態に甘んじていることはありません。かならず新たなる楽しみ、新たなる快楽の発見へと、自らをせっせと駆り立てていくからです。


具体的な話をしましょう。円熟した後半生を送るには、まず二つの発想の転換が必要です。一つはここまで述べてきたように、脳を快楽に向けて徹底的に鍛えること。そして、もう一つは、健康観を転換することです。人間は、年をとることと肉体の衰え、この二つは切り離せませんが、これまでの「健康観」に縛られていると、それが円熟を妨げる元凶になってきます。この健康観の転換については後にとりあげるとして、まずは「脳を鍛える」ということについて考えていきたいと思います。