脳には可塑性があるから、素晴らしい可能性もある

人間の脳の可塑性の素晴らしさをあらわす、たくさんのエピソードがあります。そのなかでも、私の心を動かしたのがこれです。アメリカの科学雑誌『サイエンス』に載った記事ですが、小さいころ水頭症という、脳に脳脊髄液がたまる病気にかかった男の子がいました。この子の脳は、このため通常人のように、正常に発育できませんでした。ところが、彼は、のちに成人してから大学に進み、数学で賞をとるほどの秀才となりました。IQも一二六と高く、普通の人とまったく同じ社会生活をおくることができたのです。


水頭症で発育不全だった彼が、どうしてここまで回復できたのか。専門家たちは、当時ようやく登場してきたCTスキャンで彼の脳を調べてみました。すると、なんと彼の大脳皮質は紙のように薄くなっており、ほとんどないに等しいことがわかりました。大脳皮質がほとんどない人間が、通常人と同じように暮らし、しかも数学の素晴らしい才能を発揮する。これは常識では考えられないことです。


おそらく、彼が幼少時に外部環境から受けた刺激は、とてもよくバランスされた、理想的なものであったにちがいありません。彼の脳は外部――おそらくは母親でしょう――から理想的な刺激を受け、大脳皮質以外の脳や小脳などを、大脳皮質の働きを代行するように発達させていったのです。脳には驚くほどの柔軟さがあります。この水頭症の青年のように、たとえ大きな部分がごっそり欠落していても、残った部分が新しい働きを獲得するのです。まことに驚くべきことといわざるをえません。


この大脳皮質のない天才と対照的なのが、一八世紀末、フランスのアヴェロン県で発見された野性児ヴィクトールです。狼の群れのなかで育った彼が保護されたときの推定年齢はおよそ一二歳、原則としては二足歩行ですが、疲れるとすぐに四足歩行に移ってしまったそうです。嗅覚はきわめて敏感ですが、通常の人間ほど視覚は発達していなかったといいます。彼の唯一の楽しみは、食べることと休むことで、寒さにはまったく頓着せず、全裸で平気でした。


ヴィクトールを保護したイタールという医師は、彼にフランス語を懸命に教えましたが、結局、ヴィクトールはついに一言も発することなく、四〇歳でその生涯を終えたそうです。このアヴェロンの野性児でわかることは、幼少時に人間文明から隔絶されたヒトの脳、とりわけ人生のごく初期の一〇歳ぐらいまでの脳は、言語獲得に致命的な障害を受けるということです。人間の脳の正常な発達には、人間社会とのたゆまぬ接触、刺激が欠かせないことがわかります。


この二つの例が示しているのは、私たち人間の脳は、外部環境からさまざまなバランスのとれた刺激を受けることによって、まともに発達していくということです。脳が可塑性をもっているというのは、そういう意味なのです。


私が脳を円熟させようというのも、この脳の可塑性あってのことです。人間、二〇歳を過ぎたら、脳細胞はどんどん死んでしまうとか、記憶力が豊かなのは若いうちだけだなどと、脳というものを、修理不能な精密機械であるかのように固定化して考える必要はありません。脳は成人してからは衰えるだけと思ったら、とんでもない間違いです。脳は年をとってからでも日々、自らを更新し、より豊かに複雑に円熟していく可能性をもった、驚くべき存在なのです。
 

大島清
医学博士