都会生活から奪われた「遠いまなざし」

多くの人々が自然のなかでの暮らしを求めているのは、現代の都会生活のなかでくたびれ果てた私たちの脳が、懐かしい原風景へとたちかえることを求めているからではないでしょうか。いま、日本人の多くが暮らしている都会の風景は、これまでの日本人の歴史では経験されたことのなかった、かなり特異なものです。都会には地平線、水平線がありません。


視線はすべて、直立する高層建築によって遮断されています。経済効率が最優先された結果、建築は上方へ、上方へと競って伸びていき、その結果、東京には空がなくなってしまいました。東京の山の手線に乗って、一周してみれば、以前は遠くまで見通せた風景が、いまではまったく見通せなくなっています。見えるのは、高層ビル群の窓、窓、窓、それだけです。東京で遠くまで展望できる場所といったら、荒川や多摩川の河川敷と、皇居周辺ぐらいなものです。海を求めて湾岸にいっても、はるか沖まで埋め立てられ、水平線の一部がようやく見える程度です。


いや、これにも例外があります。東京でも遠い地平線を見渡せる場所があります。それは、皮肉にも、私たちから遠いまなざしを奪っている、高層建築の最上階です。私たちは地上四〇階、五〇階という超高層建築の頂上にたってはじめて、遠い山脈や水平線、日の出、日没の光景を望むことが許されるのです。


現代の都市で暮らすということは、かつて私たちが直立歩行することによって、初めて獲得した「遠いまなざし」を喪失してしまうということです。丸の内や東京駅あたりで、歩いている人々を見ていると、それがよく現われています。人々はけっして空を見あげたり、遠くをながめることなく、視線をこころもち自分の足元前方に落として、せかせかと先を急いでいきます。


そこには、遠い未知のものにあこがれるまなざしも、壮大なるものに対する畏敬の念もありません。その目に映っているのはわずか数メートル先、せいぜい十数メートル先のことがらです。この人たちのまなざしには、豊かな感情は映し出されていないように思えてなりません。そうした現代人の都会暮らしに脳が抵抗するのは当然でしょう。


田舎暮らし、自然のなかでの暮らし。これを求める人が増えているのは、都会暮らしで喪失しつつある「遠いまなざし」をもう一度回復したいという、人間として根源的な欲求に発しているように思います。