本来ならば、戦後日本の「模範」ともなり得た「ヒューマニズム」の思想。しかし、現代日本の社会や政治においては、「人道的な行為」が正当に評価されない感覚がある、と解剖学者の養老孟司氏は危惧します。養老氏と名越康文氏の共著『二ホンという病』(日刊現代)より、今の日本に「足りないもの」とは何か、詳しく見ていきましょう。
東京一極集中が変われば、日本が変わっていく
―地域ごとに内発的なエネルギー革命を進めていったら原発はいらない、ということになります。
養老 だいたい、東京をこんなに大きくしちゃったから、福島で原発を運転しないとどうしようもなくなってしまっている。
―そういう意味でもガラガラポンで東京一極集中が変われば、日本が変わっていく。
養老 おそらく自立するのも、個人がすごく楽になると思いますね。変な心配しないで済みますからね。会社のこととか。ダメなら全員共倒れだから。何とかしなくちゃならない。知恵が出ますよね。
―地方の先進性のお話が続きましたが、中央の政治や社会には多様な価値観が欠けているように思います。
養老 僕はなんだか、日本の現代を象徴しているのが、凶弾に倒れた中村哲さんという人をどう評価するかってことだと思う。まったくないんですよ。沈黙になってしまっている。
中村さんは戦後の日本の模範みたいな人でしょ。それなのに「医者が個人でアフガニスタンで勝手なことをしていた」というのが日本社会、政治の感覚じゃないですか。中村さんが、そんなことをボソッとこぼしていましたね。
―ああいう人物のヒューマニズム、人道的な行いがきちんと評価されない国ってどうなのかなと思いますね。
養老 世界的にも珍しいんじゃないですかね。
名越 なんか、口を開けると、自分が色分けされるって恐怖があるんでしょうね。
養老 戦後の日本はあの人をどう評価するんですか。
名越 変なことをしたおじさんくらいにしか見られていない。奇特な人とか。
想像力の問題がある気がします。日本人だけかどうかは分かりませんが、自分のレベルの領分を超えたことを考える人のことを、社会単位で無視するというか。そこを登ってさらに広い範囲を見渡せる、思考のための梯子がない。
だからごく分かりやすいものの中で、「すごい」も「すごくない」も全て決められてしまっている。それ以上はみ出るともう認識すらされなくなるというか。これって実は思考の牢獄ですね。