「自動車電話」の発展史

いまとなってはスマホで足りる機能になり下がってしまった昭和の装備品といえば、自動車電話であろう。軍用無線のような巨大なショルダーフォンは、NTTドコモ「歴史展示スクエア」で現物を確認できる。

自動車電話の歴史は意外と古く、モトローラの社史によれば、1946年、シカゴで最初にサービスが提供されている。モトローラといえば、40年にハンディートーキーSCR536を投入し、第二次大戦で大活躍した無線機を生んだ会社である。41年には初の双方向FM帯無線をフィラデルフィア警察に納品した。しかし46年にシカゴで自動車電話に割り当てられた周波数帯は狭く、同時通話できる本数が非常に限られていた。

自動車電話の初期の歴史は、それ自体の歴史というよりも、携帯電話網の発展史である。ドイツでは1958年にAネッツとしてドイツ郵政の下で運用がはじまり、72年には交換手を介しないBネッツにバージョンアップした。

ノキア(1865年創業)を擁する中立国フィンランドは、主力輸出市場がソ連という特殊な環境にあり、68年に研究に着手、71年に自動車無線電話サービスを開始した。フィンランドは「北欧の日本」と呼ばれるほどテクノロジーの最先端を走っていたが、アメリカから最新の機器を輸入してはこれを参考にソ連向けの商品を開発して輸出し、日本よりもしたたかだった。当然、アメリカから目を付けられた。

日本における自動車電話は79年、電電公社の時代に大都市限定ではじまった。重さ7キロ、約30センチ四方、厚さ8センチの本体からコード付きの受話器が伸び、車から離れて通話することはできなかった。これが全国的に使えるようになったのが84年であり、民営化してNTTとなった85年、満を持して登場したのがショルダーホン(車外兼用型自動車電話)だった。重さは3キロに軽量化され、待受け8時間、通話は40分可能だった。月額基本料2万円、そして別途通話料が1分で100円だったと言われている(NTTによるサービスは2012年に終了した)。

バブル経済と貿易黒字削減の「粉飾」

一方的な貿易黒字の拡大を非難されたため、日本は国内障壁を取り除き、JETROは輸入を拡大するため、海外企業の日本進出を側面支援した。他方で、貿易黒字の縮小幅を大きく見せる「大きなお買い物」もあった。ハリウッドの映画会社やニューヨークの有名なビル、ゴッホの名作「ひまわり」などを日本企業が買収し、米欧での日本脅威論を勢いづかせた。

車の世界も、黒字削減の「粉飾」に役立った。同じ1億円の売り上げも、スーパーカー1台よりも大衆車が70台売れる方が、輸出国の雇用には貢献が大きい。バブル期では、87年に発表されたフェラーリF40が日本で値上がりした一つの例である。

F40は創業者エンツォ・フェラーリが生前に直接指示を出して開発が進んだ最後のモデルであり、同社創立40周年を記念する限定モデルのため、1,300台生産されたに過ぎない。ターボは石川島播磨(現:IHI)製で、F40は実測で時速300キロ出た。わずか59台が日本へ正規輸入され、価格は5,000万円前後だったが、1億円以上の値札がつくこともあり、それでも売れた。