Jリーグ開幕と勢いを増す「軽自動車」

バブルの熱気が未だ残る1993年、サッカーJリーグが開幕した。それまで唯一地上波で放映されるプロ・スポーツとして君臨した大相撲と野球に加え、初めて他の選択肢が登場した。以降、バレーボール、バスケットボールが続き、さらに選択肢が増えた。

93年のJリーグ開幕10チームのうち、横浜マリノス(日産、合併前の横浜フリューゲルスはANA)、サンフレッチェ広島(マツダ)、ジェフユナイテッド市原(古河電気工業)、鹿島アントラーズ(住友金属工業、そして人的にホンダからの移籍組多数)、名古屋グランパスエイト(トヨタ)、ガンバ大阪(松下電器産業、現パナソニック)、浦和レッドダイヤモンズ(三菱)と、自動車メーカーとサプライヤーの大量参戦となった。

そうした変化を求めるムードが自動車業界をも包むなか、変わらぬ「良さ」を堅持するジャンルもあった。軽自動車である。21世紀に入り、米欧から「非関税障壁」として名指しで廃止を求められている、日本独自の優遇規格だ。

米欧でのクラッシュテストの成績は微妙だが、軽のスポーツカーは世界中の物好きから注目される。89年が国産車ビンテージ・イヤーならば、91年は軽スポーツのビンテージ・イヤーである。同年に2乗りのスズキ・カプチーノとホンダ・ビートが登場した。どちらも馬力自主規制値一杯の64馬力を発生し、700キロ前後という驚異的な軽さと極小な車体により、運転する楽しさは、何百馬力もの出力を持て余すスポーツカーよりも地に足がついていた。

翌年に登場したマツダAZ-1は、ガルウイング・ドアを採用し、ついにスーパーカーと同じアイテムが軽にも降臨した。ガルウイング・ドアを採用しているにもかかわらず、車重は700キロほどに抑えられ、スズキ・アルトワークスの高出力エンジンを搭載し、愛嬌のある顔からは想像できないほど速かった。

バブル景気の余韻が贅沢に盛り込まれたこのABCトリオは、景気後退と排ガス規制強化のダブルパンチに勝てず、21世紀を迎える前に生産が終了し、短命だった。すれ違うように登壇したのが、2002年のダイハツ・コペンである。軽のオープンカー(K−open)、コペンと名付けられ、自主規制上限の64馬力を発生しつつも、この4台のなかで唯一、登場と同時にオートマ(AT)を選べる親切な売り方だった。

出所:『自動車の世界史』(中央公論新社)より抜粋
[画像]ダイハツ・コペン 出所:『自動車の世界史』(中央公論新社)より抜粋

この頃から、日本の多くのユーザーがマニュアル変速ではなくオートマを選ぶようになった。自動変速機の技術的な進化もさることながら、女性ドライバーの増加、女性総合職人口の増加など、バブル後の社会的、経済的な変化が背景にあった。共働き世帯の割合が専業主婦を上回ったのは、90年代に入ってからである。