平日は繁華街、休日はゴルフ…“渉外の神様”だったA氏
現在70代のA氏は、いわゆる「エリート金融マン」であった。A氏の半生を追いながら、なぜA氏が老後破産に陥ってしまったのか考察してみようと思う。
A氏は、第1次オイルショックと第2次オイルショックの狭間にあった1970年代後半、日本が高度経済成長期から安定成長期(中成長期)へと移行していく時代に信用金庫へ入庫した。
地域密着型金融機関である信用金庫は、定期積金をメインとした集配業務に注力しており、そこから得られる情報と信頼から、預貸金を増強していく渉外担当を主力にしていた。A氏は入庫後すぐ、その花形である渉外担当(いわゆる営業担当・外交員)を務める。持ち前の人柄のよさとユニークから、A氏は常に成績トップクラスをキープしていた。
そんなA氏は、1986年12月から突入したバブル経済の時期でも常になにかしらの部門で「理事長賞」を受賞しており、他の職員からは「渉外の神様」ともいわれた。
無論、栄転をしながら出世。年収も同期や同年代に差をつけた。重ねて当時の景況感と接待から「平日は繁華街へ、休日はゴルフ三昧」という「贅沢」を覚えてしまう。
バブル崩壊後も順調な出世レース…繁華街で「一晩数十万円」消える日も
その後、日本経済はバブルが崩壊し長期低迷期に入るものの、A氏の勢いは公私ともに衰えなかった。その支えとなっていたものが「出世」と「年収」である。
1990年代後半にA氏は30歳代後半にて支店長に就任。当時の新任支店長は40歳代が普通で、同信用金庫としては異例の出世スピードであった。また、若さと優秀さから新店舗出店時の初代支店長へと抜擢。推定年収は1,200万円で、毎晩のように上客と繁華街へ繰り出した。
2000年代に入り、40歳代後半になったA氏は、中型店舗から大型店舗の支店長となる。
大型店舗となれば部下職員も多く在籍し、いわゆる「おごり」も羽振りがよくなってしまうもの。繁華街での飲食代が「一晩数十万円」かかった日もざらにあったようだ。A氏の話ぶりや行動から、おそらく毎月100万円程度は繁華街に消えていたとみえる。推定年収から勘案し、収支はトントンだっただろう。
そして2010年代、A氏は50歳代になった。出世レースも終盤に入り、支店長クラス最上位のエリア長へ就任。推定年収は2,000万円以上となった。
エリア長が次に目指す先は役員ポストである。役員になるためには社内の「派閥」に所属せざるを得ないが、A氏は当時の理事長からも可愛がられ、順風満帆な贅沢生活を謳歌した。
もちろん、A氏にも家族がおり、このころ子息の教育費がピークを向かえる。接待費に加え子息の教育費が重なったものの、高額な年収が支えとなり、生活水準は上昇し続けた。