大学受験シーズン到来。大学入学共通テストの難化などに注目が集まっています。本記事では、桃山学院大学経済学部教授の中村勝之氏が、各大学の熾烈な学生獲得競争が予想される時代、「大学」にどんな変化が起こり得るのか、解説していきます。
「講義形式の授業」だけでは生き残れない…いま、日本の大学に必要な「教育改革」の実際 (※写真はイメージです/PIXTA)

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大学業界が直面する難題:「授業の改革」が必要となる

高等教育が大衆化することは、大学業界の拡大を意味するのと同時に、それ以前のエリート段階では想定していなかった学生層が大挙して大学へ入学することも意味する。

 

これは一面で、学力の乏しい学生が在籍するという問題に直面し、他面で外国人留学生が学ぶ場として、そして、一度大学を退学してしまった人や、実社会で働く社会人や定年退職した人々の学び直しの場としての門戸が開かれてきたということでもある。

 

そうなると、エリート段階で実践されていた手法とは本質的に異なる手法による教授実践が必要になる。学生層が多様化するのが大衆化の特徴の1つであり、潜在的学生層が大学を評価・選択する目も早晩肥えてくるだろうから、それに対応した教授手法を用意しておかなければ大学間競争で生存できないからである。

大学での勉強…『学習』から『学修』への転換

こうした大学に教授手法などの変革を迫る動きを、専門家は「教授パラダイムから学習パラダイムへの転換」※1や「『学習』から『学修』への転換」※2などと表現している。この方向を決定づけたのが2012年8月の中央教育審議会(以下、中教審と略記)の答申※3である。専門家内では質的転換答申とよばれるこの答申において、次のような一節がある。

※1:溝上慎一『アクティブラーニングと教授学習パラダイムの転換』東信堂、2014年、p.9。

※2:有本章『大学教育再生とは何か 大学教授職の日米比較』玉川大学出版部、2016年、p.304。なお、彼は学修(study)と学習(learning)を次のように概念的に区別している。前者は、講義・演習等を通じて学生がするべき予習・復習を念頭においた活動なのに対して、後者は、講義・演習等とは無関係に学生が独自に行う活動である。ただし、本書は両者の区分をあえて行わず、特に断りのない限り学習で統一する。

※3:中央教育審議会「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~」文部科学省、2012年8月。

「主体的に考える力」を持った人材を育てるには?

生涯にわたって学び続ける力、主体的に考える力を持った人材は、学生からみて受動的な教育の場では育成することができない。

 

従来のような知識の伝達・注入を中心とした授業から、教員と学生が意思疎通を図りつつ、一緒になって切磋琢磨し、相互に刺激を与えながら知的に成長する場を創り、学生が主体的に問題を発見し解を見いだしていく能動的学修(アクティブ・ラーニング)への転換が必要である。

 

すなわち個々の学生の認知的、倫理的、社会的能力を引き出し、それを鍛えるディスカッションやディベートといった双方向の講義、演習、実験、実習や実技等を中心とした授業への転換によって、学生の主体的な学修を促す質の高い学士課程教育を進めることが求められる。

 

学生は主体的な学修の体験を重ねてこそ、生涯学び続ける力を習得できるのである。(中教審、p.9)

「アクティブラーニング」をどう定義すべきなのか

ここで重要なことは、各大学で開講されている各種科目をアクティブラーニング(以下、ALと略記)に転換しなければならないという点にある。一方、同じ答申においてALの定義を以下のように定めている。

 

教員による一方的な講義形式の教育とは異なり、学修者の能動的な学修への参加を取り入れた教授・学習法の総称。学修者が能動的に学修することによって、認知的、倫理的、社会的能力、教養、知識、経験を含めた汎用的能力の育成を図る。発見学習、問題解決学習、体験学習、調査学習等が含まれるが、教室内でのグループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワーク等も有効なアクティブ・ラーニングの方法である。(中教審、p.37)

 

発見学習や問題解決学習は通常のゼミで行われているだろうし、体験学習は学外の施設見学など、調査学習はゼミでのフィールドワークなどが想起される。

 

実際、グループ・ディスカッション、ディベート、グループ・ワークなどは講義やゼミで取り入れている教員もいるだろう。教育実践に熱心な教員はこの定義を見て、≪いつもの授業と同じ≫と思うだろうが、≪面倒なことになった≫と思う教員が大半ではないだろうか。

 

おそらく、これは上記ALの定義が具体的な教育手法について述べたものであるから、演習に限らず一般の講義、すなわち座学においても拡張させられることに対する心理的抵抗があるのかもしれない。また、何をどうしたらいいか分からない思考停止状態の表れかもしれない。「座学かALか」といった議論が現場でなされる背後には、こうした事情があるのだろう。

 

これに対して、専門家の間でもALの定義をどう定めるかで統一的見解はないようだ。ここでは代表的なALの定義として溝上慎一のものを引用して紹介する。

 

■一方向的な知識伝達型講義を聴くという(受動的)学習を乗り越える意味での、あらゆる能動的な学習のこと。能動的な学習には、書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う。(溝上、p.7)

■この「あらゆる」には、第1に、教授パラダイムから学習パラダイムへの転換を、少しでも多くの教員に促すべく、「書く・話す・発表するなどの活動への関与と、そこで生じる認知プロセスの外化を伴う」学習を少しでも採り入れていれば、それをアクティブラーニングだと見なしていこう、という含意がある。(溝上、p.11)

 

中教審の定義にあるグループ・ワークなどを首尾よく運営するには、それなりのコツとテクニックが必要である。教授するトレーニングを本格的に積んでいない大半の大学教員にとっては、その体得は苦痛を伴うことである。その点、溝上の定義にしたがえば、従来の座学に少しアクセントを加えるだけでALになるということである。

 

彼自身が強調しているように、この定義は「はじめから高尚なアクティブラーニングを求めると、保守派教員にはハードルが高くて尻込みをしてしまう」(溝上、p.11)ことを配慮しての、最も広い概念なのである。逆に言えば、現状においてはそれだけALの定着が難題だと言うことである。

 

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中村 勝之

 

山口県下関市出身。大阪市立大学大学院経済学研究科後期博士課程単位取得退学。桃山学院大学経済学部教授。専門は理論経済学。著書に『大学院へのミクロ経済学講義』(2009年、現代数学社)『〈新装版〉大学院へのマクロ経済学講義』(2021年、現代数学社)『シリーズ「岡山学」13 データで見る岡山』(共著による部分執筆、2016年、吉備人出版)がある。