生徒の疑問…「なぜ作文を習わなくてはいけないの?」
種子学園の子どもたちの最大の特徴の1つは、想像力が豊かなことだ。彼らはいつも摩訶不思議な問題を持ち出してきては先生と討論する。大人がこうすべきだと思っても、子どもが納得しなければ、問題はもっと多くなる。しかし、理屈がわかれば、特別なケースを除いて、生徒たちは自分を納得させて実行することができる。だからこのような前もっての討論には、私は喜んでお付き合いする。
第1回目の作文の授業のとき、2年生の威威(ウェイウェイ)が質問してきた。「ぼくたち、どうして作文を習わなくちゃいけないの? ぼくは字も書けるし、本だって読めるのに、先生はぼくたちに毎週3回も『心の記録、生活のシルエット』を書かせて。意味がないね、これは。書くようなものはないからね」。
「君は毎日の出来事で何も書くことがないって言うの? それとも作文なんか書く必要はない、と思ってる?」先生は笑いながら尋ねた。「これはまったく別の問題よ。君が言いたいのはどっち?」
威威はすぐには返事を返せなかった。授業の鐘が鳴ったので、先生は威威の手を引いて一緒に教室へと入っていった。
15人の生徒が目を輝かせながら先生を見ている。点呼を取り、生徒全員が自分の席に着くと、先生は威威の問題をクラス全員で討論することにした。
文字は「自分の考え」を伝える最も便利な手段だが…
「どうして作文を習わなくてはならないんでしょう?」
みな、しんと黙っている。
先生は黒板に1人の人を描いて、その人の向かい側にもう1人の人を描いて言った。「もしこの人が、別の人に自分の考えを理解してもらうにはどうする?」
「彼に話せばいい!」みんなは異口同音に答えた。
先生は「話す」と書いた。
「どう話す?」また先生が尋ねた。
「こう言えばいい」。1人の子どもが自分を指さしたのでみんな笑い出した。
「ほかの人が聞いてわかる言葉で話す」。子どもたちが意見を言い始めた。「言葉がわからないならジェスチャーでもいいよ」。「それは”手話”っていうんだよ!」知識が豊かな如如(ルル)がすぐに説明し始めた。先生はずっと黒板に子どもの意見を書き記していた。
「音楽はどうだろう?」
「いいね。そんなに簡単じゃないだろうけど」
「絵を描くのは?」
「いいんじゃない? でも、やっぱり簡単じゃないよね」
「字を書くのは?」
「それもいいね。だけどほかの人が見てわからなければだめ。目が見えない人には聞こえるもので、聞こえない人には見えるもので。見えないし聞こえない人には触ってわかるやり方(点字)で。どの方法も相手が理解できなきゃだめ。話すこと、文字を書くことは最も便利な方法よ。だけど距離が遠くなると音声表現は制限を受けるから、文字が非常に必要なものになります」
「アリの友だちのイモムシが遠くへ引っ越しました。アリはイモムシを懐かしく思い、葉っぱをかじって3つの穴を開け、こう表現しました。“君が懐かしいよ”。そしてそれを郵便でイモムシに送りました。イモムシは手紙を受け取ると、やっぱり3つの穴を開けてこう表現しました。“読んでも意味わかんないよ”。そしてまたアリに送り返しました。6つの穴が開いた郵便を受け取ったアリは、どうすればいい?」
「作文の授業は、みんなに書く方法を教えて、直接会って話さなくても、他人に――1人だけじゃなくたくさんの人に自分の考えを伝え、自分も他人の考えが理解できるようになるのよ」。先生が説明した。
「それじゃあ、ぼくは字が書けるだけでいいよね」。威威は自分の主張をあきらめない。
「文字が書けるってことと文字を使えるってことは同じじゃないのよ!」先生が黒板に「信、達、雅」の3つの文字を大きく書くと、みんな目を真ん丸にした。
作文の授業で“真実に・正確に・優雅に”表す方法を学ぶ
「”信”は“真実“の意味です」。先生は例を挙げて説明を加えた。「もし、君が泳げないのにこう書いたとする。“ぼくが一番得意なのは自由形です”。これを見たら先生は君に、みんなにお手本を見せてくれと頼むかも。そしたら君はいったいどうする?」
「“達”は“正確に表現する”の意味です。君は私に、鉛筆を1本買ってほしかったんだけど、卵を2ダース買ってほしいと書いちゃった。どうする?」威威は大笑いだ。「ぼくはそんなにばかじゃないぞ」。「それはわからないわね!」先生は笑い出した。
「“雅“は何?」
「それは“優雅“だろう!」如如が発言した。
「“優雅“って何?」先生も意味がわからなかった。
「ハア! これは説明が難しいよ! 一種の感覚だよ! 見て気分がよくなるものなんだ!」如如は少し焦って説明したが、先生は同意の意味で頷いてくれた。「そうよね、これは説明が難しいよね。でも、他人が見て気分がよくなる感じとすると、文章が正しい感情を正確に表していたとして、ほかにどうやって読む人の気分をよくする?」
「文字をきちんとそろえる」。「書いたり消したりしない」。「悪い言葉を使わない」。子どもたちは少し沈黙してから言った。「もっとあるはずだ」。
先生が説明を付け足した。「作文の授業は、どうすれば自分の考えを真実に、正確に、そして優雅に表せるかを学習するものです」。
「じゃあ、なんで『心の記録、生活のシルエット』を書かないといけないの? それも毎週3回もね」。威威はまだあきらめない。
「『心の記録』は君が心で思ったこと、『生活のシルエット』は君がしたこと、つまり、日記を書くことなんです。君たちの作文はまだ基礎段階に過ぎないの。先生は君たちが自分と関係のあることを書いてほしいのよ。そして君たちの書いた内容から何か手伝えるところを探してあげる。別に週3回だけでなくてもいい。5回でも10回でもいいのよ。たくさん書いてください。作文で中級や上級の段階になったら、きちんとした作文の技術を教えてあげるから」
「じゃあ、先生の言っているのは、ぼくが書くんだったら、何を書いてもいいってこと?」如如はまたそうひと言加えた。先生はちょっと考えて頷いた。「そうね、君が書くつもりなら、何でも書いていいわよ。でも絶対に本当のことを書いてほしい」。
「ファンタジーを書いてもいい?」
「自分で考えついた内容なら、真実ともいえるからもちろんいいよ」
「っていうことは、人のを真似たのじゃなく、自分で書いたらいいってこと?」
「そういうこと」
本や詩は「どのように表現するか」がわかる教材
「でも、作文の授業では、ぼくたちにことわざを書かせるし、詩を暗記させたり、いっぱい本を読ませたりしているよね。あれはなぜなの?」鈞鈞(ジュンジュン)が別な問題を切り出してきた。
「ほかの人がどういうふうに自分の考えを表現しているのか参考にするためよ。たくさん読んで、たくさん覚えて、お腹のなかにたくさん蓄えたら、将来それを使えるでしょう! “養兵千日、用在一時(兵を養うこと千日、用は一時に在り。訳注:長期にわたって兵を養うのはいざというときに役立てるためである)“、“巧婦難為無米之炊(巧婦も無米の炊は為し難し。訳注:やり繰り上手な嫁でも米がなくては飯が炊けぬ。つまり、「無い袖は振れない」という意味)”、“熟読唐詩三百、不会作詩也会謅(訳注:唐詩300首を熟読すれば、詩はつくれなくとも吟じることはできる)”、なんていうのは聞いたことあるでしょう?」
先生が繰り出すことわざの数々に、作文基礎レベルの子どもたちはびっくりして受け入れた。彼らはこう思ったかもしれない。この先生の知識の量はすごいって。そしてやっと落ち着いて授業を受けた。すべての作文の先生がこんな出来事に出会うものなのか、私にはわからない。だが、子どもに付き合って、ともに本質的問題を考えることを、私は本当にうれしく思う。
李 雅卿(リー・ヤーチン)