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夫の定年退職の日、妻「しばらく実家に帰るね」
「行ってくるね」
60歳の定年退職を迎えた日、中田誠さん(60歳・仮名)のスマートフォンに、妻の明美さん(58歳・仮名)からLINEが届きました。誠さんは画面を何度か見直しました。この日は、30年以上勤めた会社を退職する日です。妻もそれを知っています。
「行ってくる? どこに?」
LINEには続きがありました。
「お母さんの家の片付けと、引っ越しの準備をしてきます。家の処分の手続きもあるから、いったん数週間はこちらにいるかな」
誠さんは、そこで初めて義母のことを思い出しました。明美さんの母親、洋子さん(83歳・仮名)は、地方の持ち家で一人暮らしを続けていました。夫(明美さんの父)を亡くしてから10年。これまでは身の回りのことを自分でしていましたが、ここ1年ほどで状況が変わっていました。
通院の回数が増え、買い物も負担になっています。昨年には、自宅の階段で転倒したこともありました。明美さんは何度も実家と東京の自宅を往復していました。
昨年、そんな母親を心配した明美さんから、誠さんは相談を受けていました。
「お母さん、もう一人暮らしは無理だと思う」
そのとき、誠さんはこう答えました。
「俺も定年を迎えたら時間ができるし。それなら、一緒に暮らせばいいんじゃないか?」
明美さんは、少し驚いた様子だったといいます。
「子どもたちの部屋も空いたままだし」
「……言ったからね」
それが、夫婦の約束でした。ところが、その会話以降、誠さんの記憶から約束は薄れていました。定年前の1年間、何かと忙しい日々が続きました。サラリーマンにとって定年は人生最大のライフイベントのひとつ。当然といえば当然です。
「定年したら、まず旅行に行こう」
そんな話を妻としていたこともあります。一方、明美さんはずっと母親のことを考え、同居に向けて準備を進めていたのです。
国立社会保障・人口問題研究所『第9回世帯動態調査』によると、親との同居割合は全体として低下傾向にあるものの、85歳以上の女性では48.2%が子と同居しています。これは親が高齢化し、一度別居した子と再び一緒に暮らす「再同居(呼び寄せ)」の動きが影響していると考えられます。特に80歳以上では女性の同居率が顕著に高くなりますが、これは夫と死別した高齢女性が子と同居するためです。
また同所『第7回全国家庭動向調査』によれば、妻の年齢が60代の世帯において「どちらかの母親と同居」する割合は19.6%と、他の年齢層より高い水準にあります。一人暮らしに限界を迎えた親を、定年前後の子が呼び寄せて同居を始める選択肢は、統計上も一般的な家族の形といえます。